[ファイトクラブ]世渡り上手の商売下手、国際プロレス~消えたプロレス団体

[週刊ファイト8月24-31日合併号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼世渡り上手の商売下手、国際プロレス~消えたプロレス団体
 by 安威川敏樹
・日本プロレスとの2団体時代、国際プロレスの苦戦は続く
・日本プロレスに勝った国際プロレス
・ライバル団体に利用されるだけの存在だった国際プロレス
・時代の最先端を突っ走った国際プロレスの輝かしい実績を一挙紹介


 今から42年前の1981年8月9日、北海道東端の知床半島にある羅臼町で、一つのプロレス団体が歴史を終えた。国際プロレスである。
 北海道にとっては最高の季節、夏休みの日曜日という好条件にもかかわらず、昼間の小さな屋外特設会場は老舗団体のラストとは思えない寂しい風景だった。国際プロレスのファンなら、もう二度と見ることのできない国プロの試合を観に行きたくなると思うのだが、当時のファンはそんな郷愁を持ち合わせていなかったのか、あるいは予告なく最後の興行となったので情報を知る術がなかったのか。ちなみに言うと、この日は仏滅だったのである。

 国際プロレスは不思議なプロレス団体だった。一度も黄金時代を迎えることがなかったのに、14年間も興行を続けたのだ。旗揚げしても数年であっという間に消滅するプロレス団体が多い中で、14年も存続したのはかなり長命の部類である。
 大ブームを巻き起こしながら僅か2年半で空中分解した第二次UWFが太く短い命だったのに対し、国際プロレスは対照的に細く長く生き抜いたのだ。

日本プロレスとの2団体時代、国際プロレスの苦戦は続く

 力道山が亡くなったのは1963年12月15日。その力道山が興した日本プロレスは、他団体を次々と制圧し、当時は日本のプロレス団体といえば日プロの事実上1団体のみとなっていた。
 だが、ワンマン社長がいなくなると求心力が低下するのは世の常。1966年に日プロ二代目社長の豊登道春が、若手のアントニオ猪木らと共に日プロを飛び出して東京プロレスを設立した。

 そして、日プロの営業部長だった元プロレスラーの吉原功も独立を画策。当時の日本のプロレス界では珍しく大学(早稲田)のレスリング部出身で、合理的な考え方の持ち主だった吉原は、相撲の伝統を引き継いでいた日プロの非合理的な体質が合わなかったのだ。
 東プロは旗揚げから僅か2ヵ月で早くも興行不能状態に陥り、1967年1月5日に吉原が興した国際プロレスと合同興行を行う。これが国際プロレスの旗揚げとなった。東プロは間もなく崩壊、日本のプロレス界(男子)は日本プロレスと国際プロレスの2団体時代となる。

 国プロは猪木とヒロ・マツダの二枚看板で売ろうとしていたが、猪木は豊登との対立もあって日プロに復帰。やむなく国プロはマツダをエースとしたが、テレビ中継のある日プロとの差は如何ともし難く、興行面で大きく水を開けられた。
 また、ブッカーも務めていたマツダは吉原との対立もあり国プロを離脱。国プロは窮地に追い込まれる。

 その一方で、吉原はTBSとの交渉を続けていた。そして旗揚げから1年後、遂に念願のテレビ中継に漕ぎ付ける。
 国際プロレスはTBSプロレスと改称し、1968年1月3日に全国ネットのゴールデン・タイムで定期放送が開始された。TBSプロレスがエースとして売り出したのは、ラグビー出身のグレート草津。力道山のライバルだった『20世紀最強の鉄人』ルー・テーズに、草津を4週連続で挑戦させ、秒単位で力道山以来のスーパーヒーローを生み出してみせるとTBSは豪語した。

 しかし、全盛期を過ぎたとはいえ、テーズがレスリングのできないグリーンボーイの草津に勝ちを譲るなど考えられない。マツダに代わってブッカーの立場にいたグレート東郷も同様だった。
 吉原も、レスラーのプライドを全く考えないテレビマンの意向に憤慨したのだ。結局、草津はテーズの必殺バックドロップの前に失神KO負け。本当に草津が失神したのかどうかはともかく、TBSプロレス(国際プロレス)の新エースが惨敗したことを満天下に知らしめたのだ。

 TBSはプロレス中継を続けたものの、名称は再びTBSプロレスから国際プロレスに戻る。さらに、『銭ゲバ』と呼ばれて高額のマネージメント料を取るトラブルメーカーの東郷を切った。
 外国人ルートは、当時世界最大のプロレス組織だったNWAがライバルの日本プロレスに握られていたため、アマレスの重鎮である八田一朗に協力を仰ぎ、ヨーロッパのレスラーを招聘する。

 だが、彼らはアマレス仕込みであるため玄人好みするレスラーではあったが、日プロに登場する豪華な外国人選手に比べればスター性に欠けていた。
 そこで、NWAの対抗勢力であったAWAと提携することになる。

しかし、AWAの総帥であるバーン・ガニアは、グレート東郷に劣らぬ高いブッキング料を国プロに要求した。観客動員に苦しみ、テレビ視聴率も上がらない国プロは、AWAの高い提携料が経営を圧迫したのである。
 しかもガニアは、AWAのスター・レスラーが日本人レスラーに負けることを許さなかった。そのため、国プロには日本人エースが育たず、AWA入りしたビル・ロビンソンをエースとせざるを得なかったのである。

 当時は、日本人エースがいないと人気が出なかった時代。日本人レスラーが外国人レスラーを倒す姿に、ファンは酔いしれていたのである。ライバルの日プロはジャイアント馬場やアントニオ猪木などの華やかなスター選手が溢れていたのに対し、国プロには日本人スターがいなかったのだ。これでは、ファンが国際プロレスを見ようとするはずがない。

▼国際プロレスで活躍したビル・ロビンソンの『人間風車』ダブルアーム・スープレックス

日本プロレスに勝った国際プロレス

 日本テレビとNETテレビ(現:テレビ朝日)の2局中継を軸にして黄金時代を謳歌する日本プロレスに対し、苦戦が続く国際プロレス。両者の人気の差は明らかだった。
 だが、驕れる人も久しからず。1971年に日プロで内紛が起き、アントニオ猪木を永久追放、翌年にはジャイアント馬場も独立してしまった。猪木が新日本プロレス、馬場が全日本プロレスを設立し、日本の男子プロレス界は4団体となる。

 ほぼ1強状態だった日プロの人気はみるみる下がり、翌1973年には崩壊してしまった。つまり、国際プロレスは日本プロレスとの争いに勝ったのだ! もっとも、国プロが勝ったというよりは、日プロが勝手にコケただけなのだが……。
 日プロの崩壊により、日本の男子プロレス界は国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの3団体時代に突入した。

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