[ファイトクラブ]ガラスのように脆く砕け散ったUWF~消えたプロレス団体

[週刊ファイト5月11日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ガラスのように脆く砕け散ったUWF~消えたプロレス団体
 by 安威川敏樹
・トレンドとなった史上唯一のプロレス団体、第二次UWF
・大ブームとは裏腹に、楽ではないプロレス経営
・幻となったUWFとSWSの2リーグ制
・SWS事件でプロレス界は20年遅れた
・謎多きプロレス団体・UWF。その理由は……?


 先日、WWEがUWCの親会社であるエンデバーに買収されたのは本誌でも既報済みだ。かなりショッキングなニュースだが、アメリカでの買収劇は日本とはニュアンスがかなり違う。
 日本では、買収や身売りというと経営が立ち行かなくなってやむなく、というイメージが付きまとうが、アメリカでは会社を大きくするため資産価値が高い時に売ってしまおうという場合が多い。つまり、身売りも金儲けの手段に過ぎないわけだ。WWEだって消えてなくなるわけではない。

 とはいえ、日本でもアメリカでも、プロレス団体が消滅するのは日常茶飯事。かつては隆盛を誇った団体でも、あっけなく崩壊した例は枚挙に暇がない。WWEや新日本プロレスだって、いつ消滅しても不思議ではないのだ。
 そんな『消えたプロレス団体』を追ってみたいと思う。今回はUWFだ。UWFの崩壊は、今回のWWE買収劇に少し似ている部分がある。

▼UFC親会社エンデバーがWWEをも傘下に!新会社名TKO株式51%

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トレンドとなった史上唯一のプロレス団体、第二次UWF

 UWFは普通、第一次と第二次で分けられる。第一次UWFは1984年3月に発足された。ただし、この時は何の理念もなく、新日本プロレスのクーデターにより誕生した、いわば『いらない子』のような形のプロレス団体である。
 だが、この第一次UWFは突如として独り歩きを始め、格闘プロレスへと変貌していった。この時の中心人物は、初代タイガーマスクの佐山聡。しかし、あまりに急先鋒過ぎた佐山は石もて追われ、UWFを去った。

 さらに、第一次UWFにはテレビ中継もない。当時のプロレス界で、定期テレビ放送のないプロレス団体など、存続した例はなかった。
 人気抜群の佐山が去り、テレビ中継がなかった第一次UWFは存続する術もなく、僅か1年半であっけなく崩壊。UWFの残党は古巣の新日本プロレスに吸収されたが、UWFの名前は残った。

 そして、UWF勢が新日にUターンして、事件が勃発する。UWFのエースだった前田日明が長州力の顔面を蹴り、『プロレス道にもとる行為』として解雇されたのだ。
 この裁定に前田&UWF信者の怒りが爆発。前田は高田延彦らと共に第二次UWFを旗揚げする。今から35年前、1988年5月12日のことだ。この第二次UWFは、実に画期的なプロレス団体だった。

 何しろ、日本のプロレス界史上初めて、テレビの定期放送なしで大ブームを巻き起こしたのである。しかも、旗揚げ当初から熱狂的なファンが付いていたのだ。
 そして、外国人レスラーなしでのスタートだった。選手は日本人のみの僅か6人で、試合は2試合だけ、残りのもう1組はスパーリングをファンに見せていたのである。
 それでも後楽園ホールは満員で、ファンは『これこそ本物のプロレス』と酔いしれていた。

 以降の第二次UWFは大ブームとなる。普段はプロレスなど扱わない一般マスコミが第二次UWFを『従来とは違う真剣勝負のプロレス』と取り上げてくれたのだ。
 プロレスを見たことがない客も「テレビで放送しているプロレスとは全然違う」と言う。第二次UWFは単なるブームというよりは、社会現象となったのだ。

 おそらく、こんなプロレス団体は空前絶後だろう。プロレス黄金時代と言われた1980年代でも、ほとんどの少年はプロレスを見ていたが、心の底では所詮は八百長とバカにしていたものだ。東京スポーツまで買うファンは暗いヤツで、ましてや女の子は一部の例外を除いてプロレスなど見向きもしなかったのである。
 しかし第二次UWFは、デートの口実にチケットを買って女の子を誘うことがトレンドとなったのだ。つまり暗いイメージのあったプロレスが、第二次UWFだけは流行の最先端だったのである。

大ブームとは裏腹に、楽ではないプロレス経営

 第二次UWFは、毎日のように試合を行う従来のプロレスの常識を打ち破り、試合は僅かに月1回程度。『真剣勝負だと毎日なんて試合ができるわけがない』というプロレス八百長論を逆手にとって、試合を月1回に限定することで『UWFは真剣勝負』というイメージ(幻想)を植え付けた。
 極端に少ない興行数で経営を成り立たせるために、それまでのプロレス団体が行ってきた地方巡業をやめて大都市の大会場での試合に絞る。移動費を抑え、多数の観客を呼び込むことで興行数の少なさをカバーした。さらには、テレビ放送がないというハンディは、この頃には一般家庭に普及していたVHSビデオを販売することで克服する。

 1989年11月29日にはU-COSMOSを開催。旗揚げして僅か1年半後で東京ドーム進出だ。6万人(主催者発表)も集めたうえに、この大会は第二次UWFとして初めて地上波放送されている。
 野球場規模の大会では、東京ドーム以外でも大阪球場に2万3千人(主催者発表)の観客を集めた。第二次UWF人気は、東京だけではなく全国的な広がりを見せていたのだ。

 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの第二次UWFだが、その実態はかなり厳しい経営を強いられていたという。大成功と思われたU-COSMOSでも、実券は1万5千枚程度しか売れず大赤字、いや2万枚は売れたのでそれほど大きな赤字ではないなど様々な説があるが、いずれにせよ東京ドームを埋めた客のうち少なくとも2/3は無料の招待客だったということになる。
 ちなみに、U-COSMOSのテレビ放送では「チケットは発売日初日だけで4万枚が売れた」と説明していた。いくら流行ってる感を出すためとはいえ、かなり大袈裟な数字と言わざるを得ない。

 それでも、会場は満員で、日本中ではUWFブームが巻き起こっている。つまり、会社はかなり儲かっているはずだとレスラーたちは思い込んでいた。しかし、ギャラは大して上がらない。おかしいじゃないか、選手たちはフロントに対して不信感を持った。
 だが、興行数も少なく、招待券をバラまき水増し発表をしているUWFは、さして興行成績が良いわけではない。会社は次の一手を打つ必要に迫られていたのだ。

 この頃、プロレス界に進出してきた魔の手が、UWFにも伸びつつあった。
 SWSである。

幻となったUWFとSWSの2リーグ制

 SWSは1990年5月に発足された。親会社はメガネスーパー、日本のプロレス界史上初の大企業によるプロレス団体ということで、『黒船襲来』とてんやわんやの大騒ぎとなる。
 実際、全日本プロレスは人気絶頂の天龍源一郎をはじめ、主力選手がゴッソリSWSに移籍。新日本プロレスはいち早くギャラ・アップなどの手を打ったため被害は最小限に食い止めたが、それでもSWSに鞍替えしたレスラーは少なからずいた。

 SWSは高額なギャラだけではなく、それまでのプロレス界では手付かずだったプロレスラーのセカンド・キャリアにも着手。本来、選手の保証などは老舗団体が真っ先に取り組まなければならない課題だが、プロレスラーは宵越しの銭を持たないのが魅力というのが当時の風潮だったのだ。
 アントニオ猪木は引退後の選手の受け皿としてアントン・ハイセルという事業を興したが、大失敗して残ったのは巨額の負債だった。それが元で第一次UWFが誕生したのは皮肉である。

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