ライレー最後の弟子、ライレージム京都の松並修代表(ロイ・ウッド公認ジム)
[週刊ファイト3月2日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼現代プロレスの礎となる「蛇の穴」の謎がついに明かされる!英国史考
photo & text by 藤井敏之
プロレスを好きになりのめり込むにつれ何度か聞いたであろう「蛇の穴」、いわばタイガー・マスクにも出てくる「虎の穴」のようなジムが本当にイギリスに現存するのかは半信半疑であった方も多いと思われる。そんな「蛇の穴」を信じ単身でその場所を突き止め、そこでスパーリングに加わり、さらにはキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのイギリス・ランカシャーレスリングを習得して日本で広めようとした若者がいるのだ。
その動機もまた、驚きであり子供の頃から寝っからのプロレスファンであった彼は雑誌で「イギリスには今受け継ぐ者がいなくなったレスリングがある」という記事を読み、「俺しかいないじゃないか! そしてみんなフロリダに住まれる「蛇の穴」出身者であるカール・ゴッチを頼りアメリカに飛び立つが、俺はみんなが行かないランカシャーレスリングのルーツであるイギリスに行こう」と決行したのも驚きである。
ここでイギリスレスリングの歴史であるキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを簡単に振り返ると、イギリス産業革命時代、炭鉱業で栄えたランカシャー地方のレスリングで、力自慢の炭鉱夫の娯楽や賭博の対象として人気を博した。ランカシャーレスリングは、またたくまにラクビーをもしのぐイギリスのスポーツとなってゆく。
ウィガン地方で芽生えたランカシャーレスリングの人気は次第にイギリス全土へと広まる。1800年代後半になるとアメリカ国家が台頭してくると同時に、その人気はアメリカにも波及し、ヨーロッパで人気と実力を博していたレスラー達はこぞって、海を越えアメリカに集うこととなる。初めて聞く名前かもしれないがエドウィン・ビビーやジョー・アクトンらランカシャーのトップレスラーも新天地に新しい敵を求めていったのである。
グレコローマンスタイルが主体のアメリカに、イギリスの片田舎町のランカシャースタイルの新しい血が注ぎこまれ、現代のピックレスリング(フリースタイル)ともいうべきプロレスの源流となったのだ。
ランカシャーのトップレスラー、エドウィン・ビビーとジョー・アクトン
1904年にはセントルイスで行われたオリンピックにおいて、グレコリーマンスタイルに加えてキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(フリー・スタイル)が競技種目に加わるとういう快挙に。
1908年には、今や伝説となったアメリカ王者のフランク・ゴッチと、ヨーロッパ王者のジョージ・ハッケンシュミットが『世界一決定戦』と謳われた大興行がシカゴの野球場で行われた。その模様はプロレスの殿堂などで最も目に付きやすい所に写真が飾られていたのが思い出されよう。
この2大イベントによりキャッチ・アズ・キャッチ・キャンは歴史的分岐点になり、オリンピックのレスリングはアマチュアスポーツとして、プロのレスリングは興行スポーツとして発展してゆくことになる。
これこそ正真正銘の「蛇の穴」である。
さてキャッチ・アズ・キャッチ・キャン発祥の地の英雄ビリー・ライレーは、キャッチレスリングの最盛期である1896年にウィガンで誕生。なんと10代でプロデビューしているのだ。1900年初期、長年に渡り大英帝国ミドル級王者に君臨した。またアメリカでも世界ミドル級王者にも輝いている。そして第二次世界大戦後、現役を退いたライレーは、後に「蛇の穴」と呼ばれるジムをウィガンに設立、ここから多くの伝説のレスラーを鍛え指導し輩出させたのだ。
当時のジムにはビリー・ジョイス、トミー・ムーア、ジャック・デンプシー、ジョン・ウォリー、ジョー・ロビンソン(ビリー・ジョイスの兄)、ライレーの息子アーニー・ライレーらトップ級のレスラーらがレスリングをしのぎあった。それをアメリカあたりのレスリング雑誌が記したことにより、スネーク・ピット「蛇の穴」と呼ばれるようになる。
ビリー・ライレーの在りし日の雄姿 ➄は左がビリーである。
その後蛇の穴の技術は、「プロレスの神様」カール・ゴッチや「人間風車」ビル・ロビンソンにより昭和40年から50年にアントニオ猪木ら日本人レスラーにまで受け継がれる事になり、日本のプロレスファンも「蛇の穴」の存在を知るようになる。
しかし、地元においては多くの人気レスラーが海外に活躍の場を求めた事により1960年代からキャッチレスリングの人気は低迷となった。1970年にジムは一時閉鎖されたが、子供たちのレスリングジムとしてビリー・ライレーは、弟子であるロイ・ウッドにコーチの座を譲り、自らはその練習を見守ることに勤めるようになる。残念ながら1977年にお亡くなりになった。
その後、ロイ・ウッドは子供たちに伝統の技術を教え、多くのフリー・スタイルの全英王者を輩出することになる。
当時ボウリング・グリーン(試合場)で試合が行われていた。写真は広大なラクビー場のようなところで大観衆を前に行われていたようで、写真を見る限り猪木とマサ斎藤の巌流島の決闘を彷彿させる。
日本にも1990年SWS、1996年藤波率いる無我興行にも彼はコーチとして来日している。その後、世界的にも総合格闘技ブームが流行るとランカシャーレスリングも再び着目され始め、新生「蛇の穴」として広がりをみせた。
ちなみに「蛇の穴」の出身レスラーとしてロイ・ウッド、ピーター・ソーンリー(初代ケンドー・ナガサキ)、レス・ソントン、スティーブ・ライト、ウィリアム・リーガル、異色ではブルーノ・アーリントン(1969年国際プロレスに来日)らがる。ウィリアム・リーガルの息子のリングネームがチャールズ・デンプシーなのは、由来がわかりやすい。
▼ウィガンにある通称”蛇の穴”ビリー・ライレー・ジムと英国70年代後期
ビル・ロビンソン先生の指導によりスパーリングを行う松並氏。宮戸さんも熱い視線で見守る。
蛇の穴の優等生であるビル・ロビンソン氏 宮戸氏が率いるC.A.C.Cスネークピットジャパン