[週刊ファイト12月20日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼爆弾小僧ダイナマイト・キッド追悼!剃刀戦士からステロイド禍の恐怖まで
by タダシ☆タナカ
・ウィガンにある通称”蛇の穴”ビリー・ライレー・ジムと英国70年代後期
・ゴジン・カーン漆谷勲とタイガーマスク1981年4月23日のデビュー戦
・1982年8月30日MSGでのデビュー戦キッドvs.タイガーマスク裏話
・フレディー・マーキュリーのAIDSと爆弾小僧のステロイドslow learning
・我らの先人だったダイナマイト・キッドよ、永遠に!
ダイナマイト・キッドさんが亡くなって、今も様々な団体で追悼セレモニーが行われているほか、アチコチで惜しむ声が続いている。やる側のレスラーに与えた影響はどれだけ強調しても足りない。本誌12月16日号でも座談会記事にて論客諸氏が書いているが、今号ではタダシ☆タナカ記者が思い出を綴った。
ウィガンにある通称”蛇の穴”ビリー・ライレー・ジムと英国70年代後期
「誰それもまた、ダイナマイト・キッドを見てレスラーになる決心をした!」というエピソードは、もうすでに無料のネットに氾濫しているから、本稿ではなぞったりはしない。よって個人的な体験なりを軸にさせていただく。ただ、やる側の選手に与えた影響がいかに凄まじいかは、繰り返しになろうが冒頭に述べるしかない。
いろんな時期があると思うが、筆者の頭の中では79年に国際プロレスに初来日した時に互いのベルトを賭けて阿修羅・原、そしてカルガリー遠征の新日中継で藤波辰巳と闘った初期、そして言わずと知れた新日本プロレスでの「爆弾小僧」ぶり。それから筋肉モリモリになったWWFや、全日本プロレス参戦時ということになる。
その79年の夏、筆者は英国ブライトンに夏季だけの語学留学をした。THE WHOの『四重人格』の舞台というのが大きな場所選びの要因であり、実際その夏に映画版が撮影され、翌年に公開になっている。また、レッド・ツェッペリンが最後のコンサートをネブワースの森でやり、ロンドンを経由してさらに北上して見に行った。今では、ツェッペリンだけが語られてしまう宿命になるが、現場組としてはサウスサイド・ジョニーから始まる様々なバンドのフェスティバルの記憶のほうが鮮明になる。
ブライトンにはドームというコンサートやプロレスをやるホールがあり、週末にはローラーボール・マーク・ロコ(のちのブラック・タイガー)を生で見たのが自慢になる。その際に、自分が行っていない過去回のプログラム、日本のパンフレットと比べたらしょぼいものだが、それらも買って帰って、あとからトミー・ビリントン(本名)の名前も発見するのだが、今、手元に現物がないことを含めて、生で見たかどうか記憶がない。もしかしたら見ているのに、当時は記憶に残らなかった選手なのかも知れない。
日本では伝説だけが独り歩きしているが、マンチェスター州ウィガンにある通称”蛇の穴”ビリー・ライレー・ジムで、いわゆるランカシャー・レスリングをテッド・ベトレー教官に鍛えられている。ウィガンとか70年代後期の街の実態を知りたければ2009年にDVD化された作品がある。ロック音楽のドキュメンタリーで知られるトニー・パーマー監督が、当時の若者文化の中心であり、一部にはブレイクダンス発祥の地とも活字にされているThe Wigan Casinoを題材にしてテレビ用に26分の番組が1977年に制作されていた。そんな30分番組の映像だけでも、長く皆が語り継ぐものだから、最後は単独DVDにもなったという経緯だ。筆者の知る限りPAL方式しか存在しないが、英国ロック通として苦労して手に入れて、あの時代を現場でも見た者にはプロレス・ヒストリーの貴重な資料でもある。活字プロレスだけではわからなかった背景に納得しよう。
ゴジン・カーン漆谷勲とタイガーマスク1981年4月23日のデビュー戦
上記写真は、新日本プロレスでのスキップ・ヤング戦だ。世界で最初の学生プロレス団体DWA(同志社プロレス同盟)では、まだVHSデッキが普及していない時代だったが、大阪府立体育会館だったかを観戦して、そこから見様見真似で必死にコピーした思い出の名勝負になる。
そして初代タイガーマスク佐山サトルとの1981年4月23日、蔵前国技館におけるダイナマイト・キッド戦もまた、筆者は舞台裏の演出企画に深く関わっていた。