『じゃない方』の国際軍団3対1変則タッグ・マッチ、40年前の2.7

 日本に存在したプロレス団体で、最も悲劇的だったのはWJプロレスだろう。長州力と永島勝司が組んで旗揚げしたWJプロレスは、最初こそ羽振りが良かったものの放漫経営でたちまち苦境に陥り、たった1年半で崩壊した。
 次に悲劇的だったのがSWS。メガネスーパーという大資本を母体としながら、マスコミ(というか週刊プロレス、というかターザン山本編集長)の餌食にされて僅か2年であっけなく破綻。その次に来るのが、若かりし頃のアントニオ猪木が豊登と共に設立した東京プロレスか。東プロが活動したのは実質2ヵ月という、まるでカゲロウのような短命団体である。

 忘れてはならないのが、その東京プロレスを吸収合併する形で始まった国際プロレスだ。国プロが前述の3団体と違うのは、14年半も団体が存続した点である。
 それでも、悲劇度は短命3団体に少しも劣らない。いや、歴史が長かったからこそ、国際プロレスの悲劇度は増したとも言えるだろう。


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3人が束になって1人前という屈辱

 先日、元プロ野球選手の門田博光さんが亡くなった。私事で恐縮だが、門田さんとはひょんなことからマイミク(Facebookの『友達』に相当。当時はSNSと言えばmixiが主流だった)になり、それが縁で門田さんの野球殿堂入りパーティーに出席させてもらったことがある。

 門田さんと言えば、王貞治と野村克也に次ぐ、NPB通算ホームラン記録で第3位となる567本塁打を放ったスラッガーだ。1988年、門田さんは40歳にしてホームラン王と打点王の二冠王に輝いている。そのため、門田さんは『不惑の大砲』と呼ばれた。
 だが、門田さんがプロ入りしてから40歳まで所属していたのは、当時は人気面でセントラル・リーグに大きく水を開けられていたパシフィック・リーグの中でも不人気球団であり、弱小球団でもあった南海ホークス(現:福岡ソフトバンク ホークス)。そのため、門田さんは野球ファン以外にはあまり知られる存在ではなかった。

 1986年、初代ファミスタが発売される。10球団の中で最も強かったのがレールウェイズだ。しかし、レールウェイズが強かったのは、名誉なことではなくむしろ屈辱的だったのである。
 何しろレールウェイズというのは、南海ホークスと阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)、近鉄バファローズ(現在はオリックスに吸収合併)の3球団による合同球団なのだから、強くて当たり前だ。パ・リーグの関西鉄道系球団だからレールウェイズというわけである。

 ちなみに、合同球団は他に日本ハム ファイターズ(現:北海道日本ハム ファイターズ)とロッテ オリオンズ(現:千葉ロッテ マリーンズ)による関東食品系球団のフーズフーズがあり、こちらもパ・リーグだ。パ・リーグの単独球団は、当時最強を誇っていた西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)をモチーフにしたライオネルズだけである。
 セ・リーグの方は全6球団が単独球団。当時は南海以上に弱かったNPB最弱のヤクルト スワローズ(現:東京ヤクルト スワローズ)ですら、スパローズという単独チームだった。

 当時のパ・リーグ、特に関西の球団なんて、扱いは所詮そんなもの。10球団の中にはナムコスターズという、プロ野球とは全く関係ない球団もあったぐらいだ。そんな球団を登場させるぐらいなら、レールウェイズはせめて2球団の合同球団にしてくれと思ったものである。
 阪急は初代ファミスタ発売2年前のパ・リーグ覇者、当時は近鉄も上位に食い込んでいた。あれ? だったら南海はどのみち合同球団となっていたか。
 レールウェイズの中でも、南海の選手は僅か3人のみ。しかも、門田さんがモデルの『かどた』は何と代打要員だった。ただでさえスター選手がいなかった南海、その中で最も実績のある門田さん、もとい『かどた』がレギュラーにもなれず、代打要員だなんて……。

 このレールウェイズを見ていると、あるプロレスのユニットを思い出す。そう、国際軍団だ。
 国際プロレス崩壊後、新日本プロレスのリングに上がった国プロ残党のラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇は国際軍団というユニットを組み、十把一絡げならぬ三把一絡げ扱いされ、3人でアントニオ猪木1人と闘うという屈辱的なハンディキャップ・マッチを強いられたのである。

 レールウェイズを国際軍団に例えると、阪急がラッシャー木村、近鉄がアニマル浜口、南海が寺西勇といったところか。レールウェイズの中でも3人しかいない南海勢は、『かどた(門田博光)』がラッシャー木村、『やまもと(山本和範)』がアニマル浜口、『にしかわ(西川佳明)』が寺西勇である。
 3人(3球団)で1人前という、よく似ていた国際軍団とレールウェイズだが、レールウェイズの方がまだマシだ。レールウェイズは強かったが、国際軍団は3人まとめても弱かったのだから。

お人好し連中の国際軍団が大ヒールに成長

 1981年8月を最後に、国際プロレスは活動を停止、そのまま倒産する。この年、ライバル団体の新日本プロレスと全日本プロレスは創立してまだ10周年だったのだから、14年半も続いた国プロは現存する最古参プロレス団体だったわけだ。当時の男子プロレスは、日本に3団体しかなかった時代である。現在の、インディー団体が蔓延る多団体時代には考えられない少なさだ。
 3団体“しか”と書いたが、この頃はそれでも多いと言われていた。狭い日本、マット界は一本化すべき、という意見が多数を占めていたのだ。理想は力道山時代の日本プロレスの再来である。

 だが、当時はアントニオ猪木の新日本プロレスと、ジャイアント馬場の全日本プロレスが激しく対立していた。その板挟みとなっていた国際プロレスが敢え無く崩壊したのである。
 倒産寸前の国プロは、完全に新日寄り。そのため、国プロの社長だった吉原功は「日本マットの一本化は私の構想だった。その実現に一歩近付けたので、新日に感謝する」と国プロ崩壊直後に負け惜しみとも取れる発言をしている。

 当然、吉原は路頭に迷った国プロの選手たちを新日に移籍させようとするが、多くの選手が反発、全日に合流する。新日ではどんな扱いを受けるのか判っていたのだ。
 そんな中、国プロから新日入りしたのはエースのラッシャー木村とアニマル浜口、寺西勇の3人のみ。木村が新日を選んだのは、吉原に対する恩義と、全日よりギャラが良かったからだ。
 国プロ時代はギャラの未払いも多く、いつ倒産するか判らずビクビクする毎日で、家族に迷惑をかけていた。それが新日では食いっぱぐれがなく、シリーズが終わると国プロ時代には考えられなかったような高額ギャラが振り込まれる。もっとも、間もなくしてアントン・ハイセルの巨額な負債のために、ギャラから棒引きされるようになったが……。

 新日が国際軍団に命じたのは、大ヒールになること。国プロ時代は日本人ベビー・フェイスだったお人好しの3人が、ヒールという屈辱を味わうことになる。と言っても、無理に悪役を演じなくても新日ファンから罵声を浴びる存在になっただろうが。
 当時の新日ファンは、他団体に対する蔑視が酷かった。新日と猪木のプロレスこそが正しくて、他団体なんて邪道。プロレスが世間から八百長扱いされるのは馬場と全日のせい、国プロなど新日信者から見れば虫ケラに過ぎなかった。国プロごときが新日と対等に闘うなんて、それだけで新日信者には許せなかったのだ。そのファン心理を、新日は巧く利用した。

 最初の頃はアントニオ猪木とラッシャー木村の一騎打ちで、特に反則をしなくても木村や国際軍団は新日信者から罵声を浴びる。そのうち国際軍団もヒール扱いに慣れてきて、ことあるごとに乱入し、新日信者の憎悪はますますヒートアップした。
 特に有名なのが、猪木と木村による髪切りマッチだろう。敗れた方が坊主になるというルールで、木村は負けたにもかかわらず逃走。逆に、元・国際プロレスのストロング小林からハサミを受け取ったセコンドのアニマル浜口が、猪木の髪を切るという暴挙に出た。こうして国際軍団は、猪木信者の怒りを買い、新日が求める大ヒールに成長したのである。
 そして、遂に猪木が吠えた。3人束になってかかってこい! と。

▼逃げ出したラッシャー木村の代わりに髪を切られる新日本プロレスの新間寿営業本部長

2匹目のドジョウを狙い、国際軍団の株が大暴落

 国際軍団が新日本プロレスのマットに上がった約1年後、非常識な変則タッグ・マッチが行われた。アントニオ猪木vs.ラッシャー木村&アニマル浜口&寺西勇という、1対3のハンディキャップ・マッチである。これほど上から目線で国際プロレスを見下した試合もあるまい。14年半という国際プロレスの歴史を一切無視して、新日本プロレスの優位性を満天下に示したのだ。
 試合が行われたのは1982年11月4日、東京・蔵前国技館。蔵前は興奮のルツボと化し、テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』では完全中継するために、この試合を2週にわたって放送した。視聴率は23.7%を記録して、この企画は大ヒットとなったのである。

 試合は、猪木が寺西と浜口を葬り、最後は木村との一騎打ち。だが、さすがに猪木も息が上がり、リングアウトで木村の勝ち。つまり、いくら猪木でも3人相手には勝てないというリアリティは持たせていたわけだ。
 それでも、猪木は木村にピンフォールは許さなかった。勝ちを譲ることによって国際軍団の商品価値を守り、自らはフォール負けしなかったことにより木村に対する優位性は保ったのである。

 そして、アントニオ猪木vs.国際軍団の変則タッグ・マッチは、もう一度行われた。第1回から3ヵ月後の、今からちょうど40年前の1983年2月7日、場所は前回と同じ蔵前国技館だ。つまり新日本プロレスは、二匹目のドジョウを狙ったのである。
 第1回と同じく蔵前国技館は超満員で、視聴率は前回を上回る25.9%。初代タイガーマスク(佐山聡)が大ブームを巻き起こした時でさえ、これほどの高視聴率をマークしたことはない。

 ところが、国際軍団の3対1変則タッグ・マッチで、この2回目の試合が語られることはほとんどないだろう。第1回のインパクトが強すぎたせいか、第2回はプロレス・ファンからも忘れられているのだ。今風でいえば『じゃない方』の国際軍団3対1変則タッグ・マッチである。
 実際、第2回の変則タッグ・マッチにはテーマも何もなかった。第1回は、3人に対する猪木の奮闘ぶりや、反則しようとする国際軍団の動き、そして国際軍団のカットプレーに対する山本小鉄レフェリーを含むサブ・レフェリーらのタックル行為など、見所が満載だったのである。

▼アントニオ猪木&藤波辰巳vs.ラッシャー木村&アニマル浜口では、猪木がハサミを持って挑発

 しかし第2回では、猪木はいきなり木村からピンフォールを奪ってしまった。クイック技だったため、木村の強さに傷は付かなかったが、猪木と木村の対決がなくなった変則タッグ・マッチの興味は薄れる。1対2とはいえ、猪木が浜口と寺西に負けるわけがない。
 続いて猪木は、寺西からコブラツイストでギブアップを奪う。残るのは浜口だけだ。
 遂に猪木は国際軍団の3人から勝ちを奪うかと思われたが、国際軍団の反則に怒った猪木が浜口を場外フェンスの外に放り出して反則負け。またしても猪木は敗れて国際軍団に花を持たせたわけだが、内容的には猪木の圧勝だった。悪名高かった新日本プロレスの場外フェンス・アウトというルールは、こういう時のためにあったのだろう。

 この時点で、もう国際軍団のヒールとしての価値は大暴落。事実上の猪木の勝ちとなったので猪木信者の溜飲が下がり、国際軍団は新日本プロレスとって用済みの存在となった。
 当時は、長州力率いる維新軍が大人気を博し、もう国際軍団に頼る必要はない。アニマル浜口はラッシャー木村と仲間割れして長州と合体、維新軍入りする。木村は猪木とシングルで対決するも、猪木のケンカ殺法により大流血の無残なKO負けで、もはや新日に居場所はなくなった。寺西も維新軍に合流し、国際軍団は完全に壊滅する。

 その後、維新軍は新日本プロレスに対してガチの造反を行い、ジャパン・プロレスを設立してライバルの全日本プロレスと提携した。そしてラッシャー木村は、新日クーデターにより誕生したトカゲの尻尾切り団体であるUWFに参加するも、ブッカーとしての立場をないがしろにされたため退団、全日本プロレスに参加する。
 これらの一連の騒動は、やはり『じゃない方』の国際軍団3対1マッチに起因しているのだろう。猪木が、第1回変則タッグ・マッチでやったセールを、第2回では全く行わなかった。猪木は既に、この段階で国際軍団に見切りをつけていたに違いない。

 しかし、ラッシャー木村は全日本プロレスで奇跡の復活を遂げ、マイク・パフォーマンスにより大人気レスラーとなった。新日本プロレスで大ヒールとして猪木信者から罵声を浴びていた頃には、そんな姿は想像できなかったのではないか。
 一方、門田博光さんが所属していた南海ホークスは大阪から福岡に移転し、福岡ダイエー ホークスそして福岡ソフトバンク ホークスとなって人気球団かつ強豪チームに変貌した。もうホークスは、野球ゲームでも3チームによる合同球団となることはないだろう。

 生前、ラッシャー木村と門田博光さんには接点がなかったと思われるが、なんとなく風貌や雰囲気が似ている。
 共に酒好きだったこともあり、あの世では「お互い、弱小の貧乏団体にいると辛かったよなあ」なんて愚痴をこぼしながら酒を酌み交わしているかも知れない。

▼アントニオ猪木を襲う、ラッシャー木村、寺西勇、アニマル浜口の国際軍団


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