[週刊ファイト5月27日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼金網の鬼ラッシャー木村没後10年深イイ話
by猫山文楽拳
・没後10年振り返り「田園コロシアム・コンバンわ」事件
・国際プロレス崩壊!金網の鬼の悲哀
・プロの鑑
・金網の鬼からマイクの神へ
元祖デスマッチファイター、金網の鬼、マイクパフォーマンスの神、ラッシャー木村選手が5月24日に68歳の生涯を閉じ10年が経過した。
国際プロレスと言えば金網デスマッチ、金網デスマッチと言えば国際プロレス。そんなイメージが子ども心にもあった。
その金網デスマッチの立役者、看板を張っていたのが、ラッシャー木村選手だった。
ちなみにラッシャー木村というリングネームはファンが名付け親。TBSテレビの公募によって決まった。
没後10年振り返り「田園コロシアム・コンバンわ」事件
1981年、国際プロレスは経営破綻した。
同年9月23日、新日本のリングに浜口選手らと国際はぐれ軍団として乗り込んできたラッシャー木村選手は「みなさん、コンバンわ」と挨拶を行った。
このヒールらしからぬ振る舞いは、当日木村らの出場を予知してつめかけた田園コロシアム超満員の観客の失笑を買うこととなる。
後年木村選手はこの事件について、初めての場所で挨拶するのは当然だと思っていたと語った。
おそらくは、国際プロレスは消滅したが新日で頑張りますと言いたかったのだと思われたし、コンバンわのあと、そのような言葉を発したのだが肝心要の伝えたかったことは観衆の心に届かなかった。
木村選手は見た目のいかつさと裏腹にプロレスそのものの派手さに欠け動きも固い選手で、国際プロレスの看板を張るには弱かった。
もとより他団体と比較して派手な技を魅せられるスター選手の存在がなく持てる出し物はワンパターンの金網デスマッチしかないとなればファンが離れていくのも無理からぬこと。200日300日大車輪で巡業を重ねるほど赤字が膨らむばかり。破綻しかけた頃スカスカの地方巡業で若い選手が試合後プロモーターから手渡された封筒の中身はわずか500円だったという。
国際プロレス崩壊!金網の鬼の悲哀
ダメ押しの出来事は、崩壊の足音がもうすぐそこまで迫ってきた夏の夜に起きた。
300日の強行軍で不入りの地獄絵図、選手は針の山を血だらけで歩き続けていた。
その夜の興行も観客数はわずか300人程度、うだるような蒸し暑さをさらにうっとうしく感じさせるがごとく、盛り上がりに欠ける不完全燃焼気味の試合が続いたあと、メインイベントに登場した木村選手はせめてものサービスとお得意の金網デスマッチでラフファイトを繰り出し血だらけで勝利する。
タオルで顔面を抑えなから花道を帰る満身創痍の男の背中に観客の罵声が突き刺さった。
「木村!もういつまでも金網デスマッチは古いぞ!」
このときリングサイドに立ってレンズからファインダーに一直線に向かってくる罵声を捉えていたカメラマンが、当時の関係者たちの胸中を代弁してこう書き記している。
「今夜の国プロの出来事を知っている関係者は罵声を発したファンに、心身ともに疲れきっていた木村のすべてを知ってもらいたいものだと思うに違いない」
▼追悼:ラッシャー木村 知られざる秘話で綴る金網の鬼