[ファイトクラブ]君はアントニオ猪木の名参謀、新間寿を知っているか?

[週刊ファイト10月27日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼君はアントニオ猪木の名参謀、新間寿を知っているか?
 by 藤井 敏之


 新日本プロレスが、全日本プロレスの目玉外人であるアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜き、タイガー・マスクが全国的スターとなり藤波と長州の遺恨が爆発し名勝負数え歌がスタート。そして御大アントニオ猪木が新しく創設されるIWGPに向けて目標を定めた1981年、プロレスブームが再び到来してどこの会場も満員、そしてテレビ視聴率も常に20%を記録した。
 新日本プロレスのマットに上がりマイクを持って、大観衆の前で「今、プロレスブームと言われているが、それは新日本プロレスブームである」と断言したその人こそ、昭和の過激な仕掛け人・新間寿である。約40年前の話であるので。今のプロレスファンには知る余地もないのかも。お亡くなりになったアントニオ猪木さんでさえ、その全盛期のファイトすら知らず、「1,2,3、ダー!!」と闘魂注入ビンタでしか知らないのが普通であろう。

 今回、執筆するきっかけになったのは1989年7月24日、スポーツ平和党で初の国会議員レスラーになった猪木が、翌年1990年にはイラクのクエート侵攻をきっかけに人質となった在留邦人を救い、政治家として素晴らしいスタートをきった矢先の93年に、公設秘書とスポーツ平和党前幹事長・新間寿の告発問題により2人は3度目の決別。そして猪木は「彼との関係は修復不能」と言わしめるまでの関係になった。その2人がもう一度、和解する詳しいストーリーが知りたく、前・新日本プロレス渉外担当取締役である上井文彦氏にアテンドして話してもらうと、多くの新事実が出てきたのだ。

 アントニオ猪木と新間寿の関係の歴史は古く、アントニオ猪木が1966年、海外遠征より帰る途中ハワイに立ち寄った時、日本に帰っても馬場の引き立て役にしかなれないと豊登にそそのかされ、東京プロレスを設立。猪木は社長就任と共にエースとしてリングに上がった。その時、豊登は営業部門にサラリーマン生活をしていた新間寿を勧誘。いや、実際には先に新間氏がトヨさんの面倒を見ていたのだが、若い2人は二人三脚で東京プロレスの旗揚げまで漕ぎつけていく。
 今でもその日のメインイベント、アントニオ猪木対ジョニー・バレンタイン戦は猪木の出世試合とも呼ばれるほどの名勝負であったが、資金面での苦戦から赤字が続きすぐに倒産。猪木と新間&豊登は互いに告訴合戦を行い泥沼の結果、お互い不起訴という結果に終わり袂を分けた。

井上譲二1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!! We Remember第一弾

 猪木は日本プロレスに復帰し、順調にプロレス街道を歩み始める。永遠のライバルであるジャイアント馬場の背中も見えだし、自らもシングルの王者になり倍賞美津子さんとの世間を唸らす結婚式を挙げたにもかかわらず、会社の不正使途金に我慢できずクーデーターを画策したが、事前に相談した選手の裏切りにより一人罪をかぶり、会社乗っ取りにより除名される。

 今後の行き先をファンも心配したが、自ら1972年1月26日に新日本プロレスを設立、3月6日には東京・大田区体育館で旗揚げ興行を敢行した。そして専務取締役営業本部長の肩書で、一時は絶縁したかと思われた新間寿を採用する。脂の乗りきった猪木と新間のタッグは、坂口がNETテレビ(現・テレ朝)と共に参加してくれたのを機に大躍進してゆく。1974年には蔵前国技館でストロング小林との日本人同士のエース対決、タイガー・ジエット・シンとの一連の抗争、76年には全世界を巻き込んだ現役のボクシング世界王者モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦、WWWFとの提携と、スタートでは負けていたジャイアント馬場率いる全日本プロレスに対し大きく水を開けた。

1983年のアントニオ猪木~We Remember人間不信

 そして前述のように新日本プロレスブームの頂点ともいえるIWGP決勝戦で期待されていた猪木が敗れるという大ハプニング、その後に起こった新日本プロレスクーデター未遂事件の責任をとる形で猪木は取締役を解任、新間は謹慎処分とされてしまう。しかし猪木は同年11月に復帰したが、新間はそのまま追放されてしまった。

 再び疎遠になった2人だが、1989年政界に踏み込んだ猪木が立ち上げたスポーツ平和党の幹事長として新間は就任、再び政治の場でのタッグを結成した矢先、前述のように修復不可能となってしまった。
その最後の修復へのストーリーが興味深いのである。

 1995年、猪木は2度目の参議院議員選挙に出馬するが、惜しくも落選。また猪木は新日本プロレスと間を置くようになり始める。そこで新日本プロレスで渉外とマッチメイクを任されていた上井文彦が動き始める。
 2002年猪木事務所の倍賞鉄夫に言われて、上井は坂口征二社長と一緒に、パラオに滞在中の猪木会長にマッチメーカー就任の挨拶に行くことになる。到着した早々にパラオ大統領主催の晩餐会に坂口会長と一緒に出席、翌日アントニオ猪木、坂口征二らとボートで猪木アイランドへ出発、その後シュノーケルやバーべキューなど行い日も沈んできた頃、全員でホテルのあるコロール島へ帰還する予定だったが、猪木が「一晩ここで過ごす」とのことで、一人きりではだめだと坂口さんが懸念、上井に「一緒に残るように」と指示した。

パラオでの晩餐会の様子         

イルカの島での坂口と上井

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