[猪木追悼⑦]猪木抜きに週刊ファイト存在ナシ 燃える闘魂と供に発展した日本マット

[週刊ファイト10月13日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼猪木抜きに週刊ファイト存在ナシ 燃える闘魂と供に発展した日本マット
 by タダシ☆タナカ
・猪木が飛び出さなければ日本のプロレス・格闘技界の発展はなかった
・燃える闘魂アントニオ猪木は華がありカッコ良かった、勇気づけられた
・考えされられる訃報記事の在り方~専門媒体は美辞麗句だけでは・・・
・天使だったアリと猪木の世紀の一戦の価値は永遠に不滅で間違いない
・2日目19万人動員北朝鮮お仕事役リック・フレアーの追悼tweet解釈
・サッカー暴動インドネシアが訃報と重なる奇遇とデクラン・ヒルThe FIX
・井上譲二の選ぶベスト記事は輝いていた『1966年のアントニオ猪木』
・1983年のアントニオ猪木『人間不信』ベロ出し失神は何であったのか
・負けたら引退「橋本真也-小川直也戦」のケツを変えてしまう猪木の采配
・女性たち美津子、寛子、田鶴子~結論:猪木が好きで好きでたまらない


 アントニオ猪木さんが亡くなった。79歳だった。突然の訃報ではない。業界関係者なら随分と前から病状は知っていた。また世間一般にもNHKのドキュメンタリー番組『Last Stand』が放送されていたから、編集部内では「年内だろうから準備しておくように」と連絡していたものだ。
 しかし、いざ遅くに起きる記者が週刊ファイトのサイトに訃報速報が出ているのを目にすると、面食らうなんてモンじゃない。やはり10月1日はなにもやる気になれず、映画を見たりしてぼんやりと過ごし、全くネットを見ることもしなかった。本当にリアルタイムで歩んできた者の反応であろう。
 翌10月2日の日曜昼になって、事前タイマー録画の赤ランプが点滅したのでテレビをつけると、エンニオ・モリコーネの息子指揮による来日公演があるからと、煽り番組が始まった。マカロニ・ウエスタンだのアントニオ猪木は、同時代を一緒に歩んだ者には外せない。人生を狂わされたことになる。
 そちらはBSテレビ朝日の放送だったので、CMにはプロレス入場曲コンサートの宣伝もあった。惰性で毎週予約録画がセットされている土曜深夜のテレ朝30分番組『ワールド・プロレスリング』は、中身も随分前の内容、プログラム入稿も早いようで訃報には触れてなかったが、アメリカ東部時間「金曜夜8時」に地上波FOXで生中継されるSmackDownでは、速報でアントニオ猪木の訃報を実況席が伝えていた。

京都・日本正武館パーティでの筆者、初代DWA王者エンペラー坪野、A猪木、千政和(敬称略)

 アントニオ猪木や藤波辰巳の活躍と刺激がなければ、世界で最初の学生プロレス団体DWA(同志社プロレス同盟)の1978年創立は起こりえない。また、I編集長こと故・井上義啓率いる週刊ファイトの発展もありえなかった。つまりは「喫茶店トーク」の当初の相手だった記者が現・責任者を務める、今のWEBを軸とした「週刊ファイト!ミルホンネット」も存在しないのだ。追悼号にはそのDWAの創設メンバーの一人、俳優のみぶ真也さんからも寄稿いただいている

 米国の通信員仲間と議論になったことがあるが、記者はアントニオ猪木が日本で最も有名かつ、最重要なレスラーであると主張してきている。しかし、米国では「力道山だろう、猪木は2番目だ」と言うのだ。そりゃ、力道山がいなければ、そもそもプロレスというスポーツ・エンタテインメント文化が日本に定着することはなかった。今でもプロレス興行を全くやっていない、洗礼を受けてない国々は確かに存在する。然るに、開拓者・先駆者の功績は大いに称えられて然るべきだ。ただ、やはり特大に華のあるアントニオ猪木というレスラーが飛び出さなければ、日本のマット界がここまで発展することはなかった。のちのUWF、PRIDE、”格闘技”の台頭を含めて。

1980年8・9シェイ・スタジアム:試合を見つめるビンス・マクマホンSR(中央)、トニー・アトラス、右上にはペドロ・モラレス。後列左からドン・デヌッチー、グレッグ・ガニア、アントニオ猪木

 特に1980年代初頭なら、新日本プロレスの営業本部長だった新間寿氏の「世界のプロレスの中心は日本なんだ」との進軍ラッパが鳴り響いていたが、これはデータとしても間違ってはいない。実際、アンドレ・ザ・ジャイアントだろうがNWA、AWA、WWWFのチャンピオン・クラスにせよ、日本のギャラがイチバン高かった。あの驚異的な視聴率は、いくらビジネス規模では今や米国の圧勝であっても、平均視聴者数の絶対数では、日本の2000万人だかが毎週見ていて視聴率20%出した記録の方が、今でも新黄金時代の米国よりはるかに多いのだ。
 もっとも、力道山時代のさらに高い視聴率というのは、また少し市況が違ってテレビの一般家庭への普及率が限られていたから数字だけを持ち出すのも誤解を生む。また、日本と家庭の配線事情が違い、米国はかなり前から地上波局とケーブル局の垣根がなくなり、低所得者層でも(ケーブル局)USAネットワークのRAWは容易に視聴できた環境の違いもあろう。ただやはり、80年代初期のテレ朝『ワールド・プロレスリング』の驚愕数字こそ、プロレス母国である米国と比較すべきなのである。

 ただ、栄光は長くは続かず、再び米国に再逆転されて今日に至った。今では経済規模で比較するなら10倍どころか100倍以上の巨大なビジネス格差になってしまっているが、この話は長くなるのでここではやらない。本当に猪木、藤波、タイガーマスクが輝いた時期は、日本こそが世界一のプロレス市場だったことは事実なのだ。その中心軸だったのが、エニグマとしてのアントニオ猪木なのである。

参考:タダシ☆タナカ著作『日本プロレス帝国崩壊 世界一だった日本が米国に負けた理由』講談社文庫

燃える闘魂アントニオ猪木は華がありカッコ良かった、勇気づけられた

 専門バカになってしまうと、世間大衆側の反応とか感触が見えない場合がある。よく言われることだが、街で声を拾ったら、「オカダ・カズチカでさえ知らないのが多数派」なのに対して、「アントニオ猪木、ジャイアント馬場、大仁田厚なら誰でも知っている」がある。記者は、虫歯もないのに「クリーニングしたい」と、あえて近所の歯医者に行ってみると、案の定「猪木さんが亡くなりましたね」が第一声になるのだ。そして、「昔はよく見ました。華がありましたねぇ」と、こっちが聞いてないのに話出されるのである。

 ちなみにではあるが、米国はまたちょっと違うところがある。「プロレスなんかまったく興味も関心もない。テレビでやってることは知ってるが、見ようとも思わないし選手の名前とかも知らない」という割合も結構大きいのだ。基本、「猪木、馬場、大仁田なら誰でも名前知っている」日本って、これはもの凄いことなんだが、すぐに卒業させてしまう教育法とジャーナリズムなき大本営発表の専門媒体のせいで、裾野こそ米国より認知度は圧倒的なのに、それを生かせない構造的な問題を有するのだが、これまた本稿の主旨ではないので止めておこう。

 故・I編集長こと井上義啓先生も言っていたが、なんといってもアントニオ猪木はカッコイイのだ。燃える闘魂なのだ。元気と勇気を与えてくれたのだ。闘いで感動させてくれたのである。この偉大なる功績を称えないでどうする。

考えされられる訃報記事の在り方~専門媒体は美辞麗句だけでは・・・
L.A. Times(左)、New York Times(右)Mike Lano通信員提供の現物紙面より

 日本で大きくニュースになるのは当然として、アントニオ猪木の訃報は海外でも大きく取り上げられた。それは結構なことなんだが、大抵は「アリと闘った男にして政界にも・・・」というトーンである。
 猪木アリについては、記者が詳細に調べ上げた別冊ミルホンネット電子書籍があるので、まだダウンロードされてない方は再度のお願いをするしかない。2009年に上梓され、2016年にさらに追加もされたもので、同年のアクラム・ペールワン戦についても徹底分析してある。

▼プロレス芸術とは 徹底検証! 猪木vsアリ戦の”裏”2009&2016-40周年

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