[週刊ファイト10月13日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
アントニオ猪木さんが亡くなった。筆者が一番熱かった1970年代後半から1980年代前半の超貴重写真蔵出しで、猪木さんを偲びたいと思う。
▼アントニオ猪木追悼! 秘蔵写真で綴る思い出の名場面
photo & text by 西尾智幸
・3大ライバル激闘絵巻Sハンセン、TJシン、ATジャイアント
・1976年からの格闘技路線 本当の凡戦は猪木vs.アリではなくX戦
・81年、ラッシャー木村の「こんばんは」で始まった国際軍団との抗争!
・唯一、肉眼で見た猪木と前田日明の闘い!86年『SGタッグリーグ戦』
・ありがとう!アントニオ猪木! 燃える闘魂よ、永遠なれ!
・最後に筆者が一番気になった著名人のコメントは勿論・・・桑田佳祐
アントニオ猪木追悼! 秘蔵写真で綴る思い出の名場面
10月1日、起きてスマホを触ると、いきなりニュース速報に『アントニオ猪木死去』と書かれていた。
え? 嘘? の半面、ここ近年の猪木さんを見ていて、ある程度心の準備も出来ていたのかも知れない。遂にこの日が来たか…という思いもあった。
すぐに記事に目を通すが、まだイマイチ実感が湧かない。長州力や藤波辰爾などのプロレス関係者から、次々と追悼コメントが上がりだし、各々の思いが伝わってくると、急に寂しくなった。
筆者の頭の中を全盛期のアントニオ猪木が駆け巡る。そんな思い出が一番詰まっている70年代後半から、80年代前半頃の写真で振り返り、またデジカメになってからの記憶に残る2大会を含め、写真を蔵出して猪木さんを偲びたい。因みに、撮影は全て大阪の大会とする。
まず、筆者の中で、当時の猪木の3大ライバルと言えば、スタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアントが思い浮かぶ。
まずは、ハンセン。新日本には1978年1月に初参戦。まだ突進力だけで、不器用、粗削りと言う感じだった。
▼写真は、同年2月7日のシングル戦。
▲こちらは、1980年9月11日のNWF戦。
この日は、猪木がリングアウトで勝利を得たが、2週間後の広島で再戦。その時に、猪木の伝説の逆ラリアットが炸裂する。古舘アナが「掟破りの逆サソリ」などと実況する前であった。1981年末、全日に移籍するまで、ライバル関係は続いた。
そして、シン。1973年の初来日。猪木を襲撃した新宿伊勢丹事件は良くも悪くもセンセーショナルであり、その因縁から翌年には大阪での腕折り事件へと発展した。
▲1979年10月2日 シングル戦
1978年に、相方だった上田馬之助との仲間割れの際、レフェリーを務めたが、闘っている両選手より目立っていたのはさすが猪木であった!
223cm、250kgの大巨人アンドレも、1980年代まではいつも猪木のライバルであった。
一番のインパクトは、ボディスラムで何度か投げた事だろう。
他も、ハルク・ホーガン、ハンセン、ハーリー・レイス、エル・カネック、長州力ら僅か。
もう、ご覧の通り、坂口征二も藤波辰巳もお口あんぐりである。
▲1981年9月17日 シングル戦&1981年12月10日 第2回MSGタッグ優勝戦
1976年からの格闘技路線 本当の凡戦は猪木vs.アリではなくX戦
さて、猪木と言えば、1976年から始まった異種格闘技戦も有名で、ウィリエム・ルスカ戦で始まり、第2弾であのモハメド・アリ戦。しかし、この試合は「世紀の凡戦」と揶揄されたが、ここ近年は見直されて評価は覆っている。
では、筆者から見た世紀の凡戦はというと、迷うことなく覆面空手家のミスターX戦である。当時、同時進行していた少年マガジンの連載漫画「四角いジャングル」で、記者に煙草をくわえさせ、それを背中合わせになりハイキックで蹴り落とすという衝撃的な物を見せられ、その煽り方が当時中学生だった私達は、どんなに凄い奴が来るんだと期待したが…
実際ワクワクしながら会場に足を運んだ。しかし・・・漫画よりまぁまぁおでぶ(笑)。道着もオーバーサイズで着慣れてない感じだし、勿論覆面不慣れ。試合が始まっても、パンチも蹴りもゆるい。漫画のようなハイキックは出ず、“箒(ほうき)”とも試合が出来る猪木は、2Rの後半からスパート。3R、すでにバテバテのXを腕ひしぎに決め、50秒で勝利した。
まあ、そもそも46戦20勝26反則負けのプロフィールもプロレス的で怪しい(笑)。
この結果を見て、漫画でもあれは替え玉だったとか書くもんだから、その辺にいた黒人のお兄ちゃんにアルバイトで頼んだとか、あれはキラー・トーア・カマタだったとか、都市伝説が生まれた。
実は一昔前、筆者の営む店で、上井文彦氏のトークショーを何度か行ったことがあるのだが、その時質問コーナーで、結局このXは何者だったんですか? という話が出たが、この件には上井氏は関わっていなかったので、新間さんに聞いてみましょうか? といって、その場で電話をされた。
そして、返ってきた答えは、実際にアメリカまで行っていい選手がいないかジムを回って探した。この選手だと思い依頼したのだが、あれだけ大勢の観衆の前で試合をした事が無く、完全に舞い上がって息切れし、本領を発揮できなかったというような事を言われたが、46戦もどこで闘ってるの? とも思ったが、まあ全て漫画の世界だったという事で終わっておこう(笑)。
この日から、新設されたマーシャルアーツヘビー王座。インタビュアーの古舘氏も若い。てか、一瞬誰か分からない(笑)。
81年、ラッシャー木村の「こんばんは」で始まった国際軍団との抗争!
1981年9月、国際プロレスが崩壊し、選手はバラバラに。そして、9月23日の田園コロシアムで、猪木の試合前に木村、浜口が登場し翌月の蔵前で決定していた対抗戦のアピールに来たが、真面目に「こんばんは…」と挨拶をした木村に会場は笑いが起きた。そこから、猪木と木村の一騎打ちが増え、最後には寺西勇を加え、3対1で試合をするなどエスカレートしたが、結局浜口と木村が袂を分かち、3年ほどで国際軍団は消滅するが、良くも悪くも新日の歴史の1ページには加わっただろう。
▼82年10月26日 猪木&坂口征二vs.木村&浜口
しかし、元々この日は、猪木とアブドーラ・ザ・ブッチャーの一騎打ちだったのに、気がつけばカード変更。昔は、こういう事もたまにあり「騙された!」とよく思った(笑)。
1982年には、2月4日と9月21日の2回、大阪で猪木と木村の一騎打ちがあった。9月は敗者髪切りマッチが行われ、猪木の腕ひしぎが木村にガッチリ決まり、セコンドがタオルを投入し、敗者が決定したが、木村は自分の髪を切るどころか逆に猪木の髪を切り、逃げ去っていったので、客が納得できないでいると、新間氏が自分が切るとかいいだし、最後はスッキリしないまま。こういうのも当時だなと思う!
しかし、改めてセコンド陣見てみても、堅気には見えない(笑)。
同年10月のタッグマッチでは、猪木がハサミを出して挑発! この時のパートナーは、藤波辰巳。
▲1982年10月5日 猪木&藤波vs.木村&浜口
▲1978年12月16日 vs.ボブ・バックランド(WWWF世界戦)
▲1982年7月6日 vs.エル・カネック戦
▲1982年12月9日 vs.アドリアン・アドニス戦
唯一、肉眼で見た猪木と前田日明の闘い!86年『SGタッグリーグ戦』