やる前に負けること考えるバカがいるかよ!

[猪木追悼②]

 アントニオ猪木が嫌いだった。

 なぜ嫌いだったのか?
 僕も明確な理由は判らないが、やたらと『俺は最強』と吹いていたのが鼻についたのかも知れない。

 実際に漫画『プロレススーパースター列伝』(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)の中でも、
「私は正統派の技のレスリングを愛するにせよ、ルール無用のケンカの方が、むしろ地上の誰にも負けぬ自信がある!」
 と猪木は吹聴していた。
 猪木が本当にこんなことを言っていたのかどうかは疑問だが、何しろ「プロレスは最強の格闘技であり、そのプロレスで最強だったのは俺だ」という宣伝の仕方だったのだから、猪木信者が「プロレスに限らず、猪木が世界最強の男」と信じ込むのには充分だったのだ。


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▼劣等感にさいなまれた超天才、A猪木~マット界をダメにした奴ら

[ファイトクラブ]劣等感にさいなまれた超天才、A猪木~マット界をダメにした奴ら

僕がアントニオ猪木を嫌いになった、もう一つの理由

 アントニオ猪木を嫌いだったもう一つの理由、それは僕がヒネクレ者だったからだろう。

 僕がプロレスを見始めたのは1981年、中学二年生の時である。
 現在と違い当時の男子は、ほぼ誰もが小学生の頃からプロレスを見ていたのだから、僕はかなり遅いプロレス・デビューだったわけだ。

 僕が初めて見たプロレスは、全日本プロレス。
 土曜日の夕方5時半に、たまたまテレビの10チャンネル(大阪では、日本テレビ系列の読売テレビは10チャンネル)を点けたら、プロレス中継をやっていた。
 この時の僕は「なんだ? このわざとらしい動きは??」とバカにしながらも、次第にプロレスというものに惹かれて行ったのである。

 テレビ画面では、ジャイアント馬場およびジャンボ鶴田が、アブドーラ・ザ・ブッチャーやブルーザー・ブロディといった外国人レスラーを相手に奮闘していた。
 プロレス・オンチだった僕は、ジャンボ鶴田の名前さえ知らなかったのだが、馬場とブッチャーは知っていたのである。

 しかし、一つの疑問があった。
「アントニオ猪木はどこにおんねん?」
 ということだ。
 プロレス・オンチの僕でも知っているアントニオ猪木が出ていないということは、猪木ってもう引退したのかな? と思っていた。

 そのことを、プロレス好きだった近所の兄ちゃんに話すと、
「金曜夜8時の6チャンネル(大阪では、テレビ朝日系列の朝日放送は6チャンネル)には猪木が出てるで」
 と教えてくれたのだ。
 それまでの僕は、プロレスに全日本プロレスと新日本プロレスという異なる団体があるなんて、全く知らなかったのである(その後、国際プロレスという団体まであったのを知った)。

 その兄ちゃんに教えられて、金曜夜8時の『ワールドプロレスリング』を見ると、同じプロレスでも新日本プロレスは全日本プロレスとは全然違っていた。
 全日本プロレスはどっしりしていたのに対し(言い換えればスローモー)、新日本プロレスはレスラーの動きがやたら速かったのである。

 さらに、会場の明るさではその違いが一目瞭然だった。
 薄暗い雰囲気の全日本プロレスに対し、新日本プロレスの会場は非常に明るかったのである。
 今から考えると、全日本プロレスは空席が多かったので、ガラガラ風景をテレビ画面で映し出さないように照明を暗くしていたのだが、新日本プロレスは満員の観衆をテレビでアピールするために、客席の奥の方まで煌々とライトを照らしていたのだ。
 つまり、それほど新日本プロレスと全日本プロレスでは、人気に差があったのである。

 当然、学校ではアントニオ猪木&新日本プロレスの人気が圧倒的で、ジャイアント馬場&全日本プロレスを支持するヤツは少数派、というより皆無に近かったと言ってよい。
 一人だけ、当時は『全日本プロレス第三の男』と呼ばれていた天龍源一郎のファンがいて、これは例外中の例外だ。
 つまり、猪木プロレスがメジャーで、馬場プロレスはマイナーな存在だったのである。

 だが、僕は完全なジャイアント馬場&全日本プロレス派だった。
 鳥の世界には、刷り込み教育というものがある。
 ひな鳥は生まれて最初に見た鳥を親と思い込むため、カッコウなどはその習性を利用して親鳥が我が子を他の種族の鳥に育てさせようとするのだ。
 僕も、最初に見たプロレスがジャイアント馬場&全日本プロレスだったので、鳥のように刷り込み教育が行われたらしい。

 さらに、クラスメートのほとんどが猪木&新日派だったため、僕は馬場&全日派になったのだろう。
 たとえば、僕は阪神ファンだが、これもヒネクレ者だった故と思われる。
 阪神が地元球団というのもあるが、もう一つの大きな理由は巨人に対する拒否反応だった。
 当時は『巨人あってのプロ野球』と言われており、あらゆるマスコミが巨人ビイキだったのに反発していたのである。
 大阪人は誰もが巨人嫌いというイメージがあるが、実際にはそうではなく、僕が子供の頃は大阪でも阪神ファンと巨人ファンはほぼ半々だった。
 大阪ですらそんな状態だったから、全国的な人気は巨人が圧倒的だったのである。
 そんな土壌もあって、僕は阪神ファン、アンチ巨人となったのだ。

 もし僕が、最初に見たプロレスが日本プロレス時代の馬場がエース、猪木が二番手という状態だったら、猪木ファンになっていたかも知れない。

コンプライアンスよりも重視される、アントニオ猪木のルール

 猪木寛至ほど、何人分もの人生を生きた人物はいないだろう。
 少年時代のイジメられっ子体験に、青年時のブラジル移民、プロレス入りしてからは力道山の付き人として徹底的にしごかれ、力道山の死後は東京プロレスを旗揚げするも失敗。
 その後は日本プロレスでジャイアント馬場に次ぐエース級の扱いを受けるが、日プロを永久追放され新日本プロレスを旗揚げする。
 その新日本プロレスでも、従来のプロレスでは飽き足らず、異種格闘技戦という新たなジャンルを開発した。

 さらには、政治家にまでなる。
 選挙演説での迷言、
「消費税に延髄斬り、国会には卍固め」
 という意味不明のフレーズで参議院選挙に当選した。

 こんなセリフを吐く男を国政に参加させた有権者の罪は重い。
 もっとも、猪木を当選させたのは猪木信者だが、日本政治のレベルの低さが判るだろう。
 やはり、猪木を政治家にさせるべきではなかった。
 猪木のような人物を当選させたことにより、日本の政治レベルは低下し、国民は力のある政治家に操られ、カルト宗教が暗躍し、元首相を暗殺しなければ真相は闇の中に葬られる世の中になってしまったと言えよう。

 そんな猪木にも、心に突き刺さる言葉があった。
 それが、
「やる前に負けること考えるバカがいるかよ!」
 だ。

「時は来た、それだけだ」という、橋本真也のフレーズとセットで記憶されているこの言葉、そりゃあ試合する前から勝ち負けは決まってるんだから、猪木が『やる前に負けることを考える』ことはない。
 なんて野暮なことは言いっこなし。

 それにしても、驚いたのはあの時の猪木のド迫力だ。
 とても演技とは思えなかった。
 テレビ朝日の佐々木正洋アナに放ったビンタも、現在なら間違いなく放送禁止になっただろう。
 それでも猪木は、コンプライアンスが厳しい今でも、ビンタを放ったのではないか。
 時には法令まで無視する、この凄まじさこそが猪木の真骨頂と言える。

 僕はいつも、やる前に負けることを考えていた。
 何事にも自信がないものだから、常に予防線を張っていたに違いない。

 しかし猪木の言うように、やる前から負けることを考えるヤツはバカなのだ。
 物事は何でも、勝つつもりで挑まなければならない。
 負けた時の言い訳を考えたらいけないのである。
 
 それでも負けた時は、次には勝つように努力すればいい。
 それを僕は、猪木の言葉から学んだ。

やる前に負けること考えるバカがいるかよ!

 これは、日本史に残る金言である。


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