[Fightドキュメンタリー劇場 32]ハンセン・プロレスの原型!1977年9月「猪木vs.ハンセン」

[週刊ファイト7月21日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼[Fightドキュメンタリー劇場 32] 井上義啓の喫茶店トーク
 ハンセン・プロレスの原型!1977年9月「猪木vs.ハンセン」
 by Favorite Cafe 管理人


 I編集長は、初期のスタン・ハンセンの闘い方を評して「一人よがりのプロレス」と言う。従来のプロレスから見ればルール違反だと。しかしこのハンセンの「掟破り」の試合スタイルを猪木は許容した。I編集長は、「これが後の日本のプロレス界に“福”をもたらした」と語る。

■ 闘いのワンダーランド #037(1997.01.24放送)「I編集長の喫茶店トーク」
 1977.09.02 愛知県体育館
 アントニオ猪木vs. スタン・ハンセン

放送画面より

(I編集長) 今日は昭和52年9月2日、愛知県体育館で行われました「猪木vs.ハンセン戦」です。これはハンセンが猪木のNWFタイトルに初めて挑戦した試合なんですね。猪木がなんとか勝ってタイトルを防衛しましたけども、この頃のハンセンの太ももの凄さね、これ、みなさんビックリされたと思います。もの凄い太さですよ。ハンセンのそばに行ってこの太ももを見る度にこの男の凄さを私は感じていましたね。
やっぱりね、若い頃のハンセン、若い頃の猪木、無論、若い頃の馬場さんもそうだし、鶴田、天龍、みんな凄いですよ。完成されているのか、いないのかの問題はありますけどね。この頃のハンセンを見ていただくと、若さからの「ムンムン」するような体臭というか、エネルギーを感じますね。そこらへんがこの試合で是非見ていただきたいところです。

週刊ファイト 1977年9月13日号

(I編集長) この試合は、ハンセンが新日プロで活躍する初期の試合です。この頃からすでにハンセンはハイスパートなレスリングをやっていますね。もう間を置かずに「バンバーン」とね、ハッキリ言えば「一人よがりのプロレス」ですよ。私は皆のように「ブレーキの壊れたダンプカー」なんて言わなかったですね。私に言わせれば「一人よがりのプロレス」ですよ。しかし、このハンセンのスタイルを新日プロ、アントニオ猪木は受け入れたんです。

▼[Fightドキュメンタリー劇場22] 1977年1月、スタン・ハンセン新日マット初登場

[Fightドキュメンタリー劇場22]1977年1月、スタン・ハンセン新日マット初登場

(I編集長) 実はこのスタイルのハンセンに対して、全米のプロモーターが総スカンを食らわしていたんですね。「プロレスを知らない奴だ、間もとれないようなレスラーはいらない」と。そういうふうに間も取らずに「バンバーン」と行くから、サンマルチノの首をへし折ってしまうことになったんです。あれが、普通のルールにのっとって、しっかりとした間合いで投げたのであれば、受け身の下手なサンマルチノでも首を負傷することは無かったんです。ところがハンセンは、そういった「間」を無視して「バーン」行ってしまうレスラーなんですよ。相手は受け身の取りようがないんですね。ましてやサンマルチノは受け身が下手なんですから。下手ですよ、あの人はね。受け身の上手いレイスとかフレアーとかとは違うんですよ。それでもう、いっぺんにやられてしまったんです。

首を固定して療養中のブルーノ・サンマルチノ

(I編集長) そういう事で、全米のプロモーター達はハンセンをブラックリストに乗せたんですよ。「あいつはもう使わない」となったんです。NWA、WWF、AWA全部です。それで全日本プロレスは、それ以前に一度はハンセンを呼んでいたんですけど、以降馬場さんとしてもハンセンを使うわけにはいかなかったんです。まあ、全日本プロレスのマットに初来日したときから、みんなが、「あいつは木偶の坊だ」と言って笑ってましたけどね。

(I編集長) だから、元々は全日系のレスラーですけど、新日が横取りした形になったんです。しかしながら、それで何の問題も起こらなかったのは、先ほどのような理由で全米のプロモーターが使わなくなっていたので、馬場さんも「ご自由にどうぞ」と新日プロに譲ったんです。
 そんな経緯で新日に参戦したハンセンですから、団体側としては「今までのようなレスリングでは困る。新日のリングでは、こういうふうに闘ってくれ」と言うはずですよね。ところが猪木は全く言わなかったですね。
 今日の試合を見ても一目瞭然ですよ。ハンセンはそれまでの闘い方に全く修正を加えていませんよね。だから我々は「どうしてハンセンにあんな一人よがりのプロレスをさせるんだろう」と首をひねったもんですよ。しかしそれが新日本プロレスの真骨頂だったんですね。これもストロングスタイルのひとつの断面だったんです。このスタイルが新日本で殺されること無くずっと続いて、そしてハンセンはハイスパートのプロレスを自分のスタイルとしたままで、全日に移籍することになりましたね。

(I編集長) そのことが全日本プロレスに“福”をもたらして“全日プロレス”を完成させることになったんです。私が申し上げている“全日プロレス”とは団体のことでは無いですよ。私は全日本プロレスがやっているハイスパートな攻防一体化のプロレススタイルを“全日プロレス”と呼んでいるんです。この“全日プロレス”が完成したのは、これは三沢がおったから、川田がおったから、小橋、田上がおったからじゃないですよね、これ。ハンセンが持ち込んだからですよ。ハンセンのプロレスに対抗するために四天王はハイスパートな攻防のプロレスをやらざるを得なかったんですよね。もう、がむしゃらになってやったんですね。それがあの素晴らしい、“全日プロレス”を生み出すことになったんです。

(I編集長) それもこれも、猪木、新日本プロレスがハンセンのスタイルを殺さなかったのが、日本のプロレス界にとっての一番のクリーンヒットだったということですよね。あれを全米のプロモーター達みたいにハンセンのスタイルを嫌ってしまって、従来のプロレスを押しつけていたらハンセンは死んでしまってますよ。今のハンセンは無かったですよ。
 本当はああいったプロレスは掟破りなんですよね。プロレスのルール違反なんですよ、あれは。今日のフィルムを見ていただいたら分かりますわね。「ブワーン」と叩きつける、そこで瞬間的にハンセンが走ってますでしょ。それでラリアートですよ、「ガーン」と。これを力道山時代のプロレスでやったら「何なんだ、このレスラーは」となりますよ。

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(I編集長) 今日放送された52年9月の愛知県体育館での試合は、新日本プロレスにとっては、猪木のストロングスタイルのカラーを打ち出すことができる絶好の試合になりましたね。ハンセンが初めてNWFタイトルに挑戦して、自分のスタイルをつらぬいた、猪木もそれを受けて立った、そういった意味では今日の試合は、ファンの方なら見逃してはならない試合なんです。他の試合とは違いますよ、これ。

▼猪木・ハンセン 27年目の再会か ―週刊マット界舞台裏―(2008.02.01)
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猪木・ハンセン 27年目の再会か-週刊マット界舞台裏-


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