[ファイトクラブ]日本プロレス時代の豪華すぎる布陣とタイトルマッチ師走ダッシュ!!

インター・チャンピオン・シリーズ札幌大会のBI砲が並び立つ貴重なポスター
[ファイトクラブ]公開中 週刊ファイト12月9日号収録

▼日本プロレス時代の豪華すぎる布陣とタイトルマッチ師走ダッシュ!!
by 藤井 敏之

 今年も早いもので師走の候に突入した。コロナ渦の中、この2年間は身動きを自由にとることもできず日々の時間経過が例年より早く感じるものである。そして、この季節になるとよく思い出すのがプロレス興行のわくわく感なのだ。
 ジャイアント馬場とアントニオ猪木がタッグを組み、毎シリーズタイトル・マッチを行っていた贅沢すぎる日本プロレスの時代。年末シリーズにおいては特別興行的に豪華な外人レスラーが複数人参加して、大都市の大会場で連日タイトルマッチが行われるのが通例であった。この図式は後に新日本プロレスや全日本プロレスに引き継がれる事となる。
 2団体が激しく競いあっていた時代において全日本プロレスはNWAから、新日本プロレスはWWFから強豪外人を来日させ激しい企業競争を行っていたが、ファンにとっては歓迎すべき黄金時代であった。よく全米から一気に強豪レスラーが消えたとも言われていた時代である。世間的には何かと忙しくなる時節であり、サラリーマンがボーナスを貰いお金が潤っているのを狙ってなのか、とにかくどの会場も人が溢れて超満員であった記憶が蘇る。
 さて、そんな中最も印象に残っている日本プロレス時代におけるシリーズが1970年末に開催されたインター・ナショナルチャンピオン・シリーズであった。

 前々年末、ジャイアント馬場のインター・ナショナル選手権王座を狙いやってきた、現役のNWA世界ヘビー級チャンピオンである“荒法師”ジン・キニスキーが、再び馬場のインターに狙いを定めやってきた。この年の2月にドリー・ファンク・ジュニアに惜敗して王者を明け渡してしまったが、身軽になったせいか逆に益々元気にパワーアップしての来日である。
 さらに驚く事には、アントニオ猪木が日本プロレスに背き、立ち上げた東京プロレスの旗揚げ試合に来日した“金髪の妖鬼”ジョニー・バレンタインの来日が遂に決定したのだ。かつては日本プロレス協会のライバル団体のエース外人として来日していたバレンタインを、ブラック・リストの一員としてなかなか日本プロレス協会は来日させなかった経緯から、ファンも半ばあきらめかけていた矢先の大ホームランである。
 つまりジャイアント馬場とアントニオ猪木の生涯最大のライバルが、満を持して手を組み来日するのだ。
 この快挙のニュースにプロレス・マスコミもプロレス・ファンも色めき立ったものだ。

▼We Remember 1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!!

We Remember 1966年のアントニオ猪木 君は東プロ時代の猪木を見たか!!

 2大強豪はシリーズの中盤戦から特別参加し、11月29日札幌中島スポーツセンターでアジア・タッグ王者、猪木&吉村組にバレンタインが若きハーリー・レイスをパートナーに挑戦。12月1日東京体育館では待望の夢のインター・タッグ選手権試合が組まれ、王者組・馬場&猪木にジン・キニスキー&ジョニー・バレンタイン組が挑戦。12月2日は名古屋で再びアジア・タッグ選手権試合、12月3日は大阪でインター・ナショナル選手権試合、王者・ジャイアント馬場にジン・キニスキーが挑戦、最後に12月9日、盛岡で再々のアジア・タッグ選手権試合を行うと発表される。
 せっかくの二人の強豪が揃ったのにインター・タッグ戦は1回のみで、逆にアジア・タッグ戦が3回もあることに不満はあったものだ。

荒法師と金髪の妖気の強力なタッグチーム
  
キニスキーのCANADAの文字が入ったコスチューム   
まさに妖気が全身から漂う

▼アントニオ猪木と恋人ジョニー・バレンタイン:その出会いと別れ

[ファイトクラブ]アントニオ猪木と恋人ジョニー・バレンタイン:その出会いと別れ


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