[Fightドキュメンタリー劇場④]モンスター・ロシモフが新日プロへ移籍『’74ビッグファイト・シリーズ』

[週刊ファイト8月12日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼[Fightドキュメンタリー劇場④] 井上義啓の喫茶店トーク
 モンスター・ロシモフが新日プロへ移籍『’74ビッグファイト・シリーズ』
 by Favorite Café管理人


 ‘74ビッグファイト・シリーズは、このシリーズは国際プロレスの看板外国人選手だったモンスター・ロシモフが、アンドレ・ザ・ジャイアントと改名して新日本プロレスに初登場したシリーズです。リングネームを変更した理由とは?
 そしてそのジャイアントは、大の日本人嫌いで有名。それでも「週刊ファイトの記者はなぜか笑顔ジャイアントの写真を撮ってきた」とI編集長。今回の喫茶店トークの前半は、新日に初登場したアンドレ・ザ・ジャイアントのロシモフ時代からのエピソードです。

■ 闘いのワンダーランド #011「I編集長の喫茶店トーク」(1996.12.16放送)

(I編集長) ロシモフ時代のアンドレっていうのは、まだ駆け出しだったから、もう「ピーピー、ピーピー」マネージャーにブン殴られたりね、いろんなことがあって。それで、「モンスター」なんて言われたりしてね。アンドレにしてみたら、ファンそういった時代を知ってるし、目の前の記者連中も知ってるし、ということが頭にあるんですよ。だから出世してから(日本のマットに)出てきたんであればそういうことは無いんだけれども、もう「ピーピー、ピーピー」言っておった頃から日本に来ていますからね。みんな知ってると。それが嫌なんですね、ひとつは。

 モンスター・ロシモフの初来日を伝えるファイト紙より(1970年)

(I編集長) それともう一つはやっぱり、日本人の悪い癖でね、たとえば水戸市だったかな、アンドレが歩いていた。そしたらそこへ50歳前後の背広着たおっさん連中が4、5人やってきて、「お、見ろ、アンドレだ。でっかいな」と。それでこう、前に回るんですよ。(見上げて)「なんだ、バケモノだよ」と。アンドレはね、「バケモノ」という言葉は覚えてるんですよ。知ってるんですよ、これ。「バケモノ」だとかね、なんとかかんとかは。だから「バケモノ」と言われたら顔色がパーッと変わるんですよね。それで目の前で言ってるわけでしょ。「やー、でっかいな。こんな大男でバケモノで・・・」なんてね。そりゃぁもう、「ムカッ」ときますよ。と言ってぶん殴るわけにもいかんしね。だからそういうことがあるからね、日本人嫌いになっちゃうんですよ。だから日本人だと言ったら絶対に「No」と、こうですよ。もうインタビューなんて絶対にさせてくれないね、これ。どんなに頼んでも。高橋レフリーに頼んだんだけれども「ダメ」。写真も撮らせないですよ。試合はしょうが無い、ギャラをもらってるんだから。
だから試合は撮ってもいいけどね。もう、ホテルとか、ロビーなんかでビール飲んだりね、ウィスキー飲んだりするところは絶対に「アカン」と。そんな隠し撮りもダメだということなんですよね。だからそういうことがあったんですよ。

  国際プロレス 新春チャレンジシリーズ(1970年) 

(I編集長) ところがアンドレがアメリカで街を歩いてるでしょ。ニューヨークにしろ、ディズニーランドにしろ。するとあるカメラマンが言ってましたけど、ディズニーランドでアンドレが歩いてるんですよ。そうすると誰も振り向かないっていうんですよね。それで「あーだ、こーだ」っていう人間は誰もいない。なにしろ向こうは(みんな)デカいですからね。少々デカい者がおったところで、「あー、大きいなぁ」とか「バケモノ」と言わ無いんですよ、感覚として。だからアンドレはもう悠々とね、歩いてる。
ところが日本に来ると、すぐさっきの通りですね。だからそういうことがあって、「日本人は嫌だな」と。それでなんかあれ(雑誌や新聞)を見ると、アンドレはデカいからベッドを三つ持っていってやったと言うようなことが書いてあるわけでしょ。それがね、「これはこういう風に書いてあるんだよ」とかね、やっぱり耳に入ってくるんですよ。だからなおさら嫌いますよ、バケモノ扱いされたら。
だから「モンスター」という名前、呼び名自体をね、アンドレはもの凄く嫌ってましたからね。だからモンスターというのもやめて、アンドレ・ザ・ジャイアントに変えたんですよ。(リングネームを変えた理由は)そういうところがあったんです。

【コラム】
▼”大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントの本名をめぐる侃々諤々 by 立嶋博

[ファイトクラブ]”大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントの本名をめぐる侃々諤々


アンドレの本名については過去、いろんな説が取り沙汰されてきたが、
「アンドレ・ルネ・ルシモフ André René Roussimoff」というのが、パスポートに・・・・

ファンサービスをするジャイアント、日本ではあり得ない

(I編集長) だから面白い話というのはね、ウチのフリーカメラマンが、アメリカで取材して回ってたんですね。それで(フロリダの)タンパでアンドレが出場しておったんですよ。ニックなんかと一緒に。その時にその(プライベートな)写真を撮って帰ってきてるんですよ。あれだけ写真を嫌ってるのにね。肩を組んだり、いろんな写真が写ってるもんですからね、ビックリしたんですね、これ。「お前、よくアンドレのこんな写真が撮れたな」と聞いたら、アンドレが「ジャパニーズ?」と聞いてきたらしいんですよ。その時に「ノーノー、アイム・チャイニーズ」と言ったらしい。それでアンドレは「チャイニーズ」と言われたもんだから、「だったらいい」ということで、それでOKになったという。

ウチのカメラマンというのは、大体がそういう風に頭がいいんですよ。そういった写真はウチだけでしょ、ニックなんかとこう肩を抱いてね、「ニコニコ」笑いながら撮ってるような写真っていうのはね、滅多に無いんですよ。アメリカでの写真はありますけどね。流れてくる写真、これはアメリカの青い目のカメラマンの撮った写真をね、日本に流しますからね。これはもうしょうが無いですね。アンドレにしてみたら、そんな写真が「どうのこうの」とは思わない。だからいずれにしたって(週刊ファイトには写真が)多かったことは確かですよ。

(I編集長)ウチだけでしょ、「ニコニコ」と笑いながら撮ってる写真 by 伊ヶ崎光雄

女子王者スーザン・セクストンとMSG定期戦。右写真のような子供が今レスラーの例多数!by George Napolitano

 アンドレ・ザ・ジャイアントが新日本プロレスに初登場した『‘74ビッグファイト・シリーズ』最終戦3月19日の蔵前国技館。ダブルメインイベント第1試合が、坂口征二vs.アンドレ・ザ・ジャイアント、そして第2試合が、アントニオ猪木vs.ストロング小林。いずれも名勝負となりました。
 猪木vs.小林戦の陰で語られることの少ない、この日の坂口vsジャイアントですが、試合はド迫力でした。ジャイアントにヘッドロックをかける坂口、坂口がジャンピング・ヘッドシザースでジャイアントからテイクダウン。そしてジャイアントをコーナーマットにたたきつける。坂口の力強い一つ一つの攻撃に客席からはどよめきと歓声が上がっています。そして場外乱闘のドロー決着となったものの、試合時間は17分を超えており、坂口とジャイアントが互角の闘いを繰り広げました。
 写真は6年後の第3回MSGシリーズでの対戦ですが、アンドレ・ザ・ジャイアントに真っ向から勝負できる坂口征二の試合は、創生期の新日本プロレスを支えたドル箱カードのひとつでした。

1980年5月23日 宮城県・迫町立体育館

(I編集長) 新日本プロレスに初来日したという意味で、アンドレ・ザ・ジャイアントの凄さ、当時の伝説時代のね。で、坂口がけしかけた試合でしょ。これを見ていただいと思うんだけども、やっぱり凄いなという印象がありますね。だからね、やっぱり全盛時代にね、カードというのはどんどん実現してほしいと言うことですよ。

 I編集長も全盛期の二人のド迫力の闘いに満足のコメントでした。『‘74ビッグファイト・シリーズ』3月19日蔵前国技館の坂口征二vsアンドレ・ザ・ジャイアントは、CSテレ朝chのワールドプロレスリング・クラシックス #089「坂口征二特集」でも放送していますので、リピート放送でご覧になることが出来るかも知れません。

 そしてI編集長の喫茶店トークの後半は、この日のダブルメインイベント第2試合、アントニオ猪木vs.ストロング小林に移ります。実現に至った経緯、推進派と反対派のマスコミや人間関係などを知るI編集長は、プロレスファンとは違う内側からの目線で思いを語っています。
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