[週刊ファイト6月10日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼BADMAXカス野郎藤永幸司異色の経歴と知られざる偉業
by猫山文楽拳 画像提供KOBEメリケンプロレス
・ピンチをチャンスに!コロナを逆手に野外を主戦場とする団体を設立
・全日本大量離脱事件直後馬場元子さんのトークイベント開催
・あのイベントもプロデュース!藤永の知られざる偉業
・猪木に憧れ小鉄に育てられプロレスラーデビュー
・神戸カス野郎プロレスで実現したシングルマッチ
・始まりの場所神戸をこよなく愛する男の周りに広がり続ける人の輪
・「神戸をプロレスの街にしたいんや」男の一念神戸市をも動かす
緊急事態宣言まっただなかの5月29日。
記者は県をまたいだ取材旅行を敢行した。
もう少し待てば良かったのかもしれないという一抹の不安と後悔は、JR岡山駅の新幹線のホームに立ったとき消え失せた。
誰もいなかった。貸し切り状態で姫路に到着、そこからJR元町へ。乗り継ぎもスムーズだった。西口から高架下を直進。
プロレスカフェバー「RINGSOUL」に到着すると、RINGSOULのオーナーそしてKOBEメリケンプロレスの主宰者でありプロレスラーの藤永幸司選手が待っていた。
本来なら5月に野外での大会を取材する予定が、兵庫県に緊急事態宣言発令に伴い流れた。
いまとなってはイベントの中止それ自体が感染症拡大抑止に果たしてどれほどの効果があるのか釈然としない。オリンピックは開催されるのに。
ピンチをチャンスに!コロナを逆手に野外を主戦場とする団体を設立
藤永幸司をいまどうしても取材したかった理由はふたつあった。
ひとつには世の中が自粛ムードにおおわれていたこの3月に野外を主戦場とした新団体を立ち上げるという暴挙とも取れるアクションに打ってでた真意を本人の口からどうしても聞きたいと思った。
もうひとつは彼の謎に包まれた戦歴。
実は取材前に下調べと思い検索してみたら、藤永幸司はなんとウィキぺディアが存在しなかった(取材の後に出来た)。
プロレスバーRINGSOULのオーナーということは知っていたが、彼がいつ頃からプロレスラーになり、どのような遍歴を重ねてきたのかさっぱり見えてこなかったのだ。
ーなぜ、いまこのタイミングであえてプロレス団体を立ち上げようと思いいたったのですか?
最初にぶつけてみたのが、この質問だった。
藤永「戦後日本人は、力道山のプロレスに自らを重ね合わせて元気を貰った。東日本大震災のあとも、プロレス団体はいち早く被災地に行ってプロレスで被災された人々を励ました。いまコロナで大変なことになってますけど、こういうときこそプロレスが街や人びとの前向きになるきっかけになってくれたら良いなと思うんです。」
よどみのない返答口ぶりに覚悟のほどがうかがえた。
この男の夢が、時間がかかりながらも費えることなく確実に実現に向かって前進を続けていける理由がわかった気がした。
ごく限られた身内だけが楽しければ良いとか、自己の承認欲求を満たしたいがためというのではなしに、常に大衆の気持ちに寄り添って、多くの人々の喜びをプロレスで叶えようとしているのだ。
藤永のまなざしは常人が観ているよりも遥か先を見据えている、そう感じられた。
メリケンプロレスが野外を主戦場とすると銘打った理由も、感染症対策を見据えた上でのことというのも、決して理想論だけで突き進もうとしていないことがわかる。
全日本大量離脱事件直後馬場元子さんのトークイベント開催
取材場所のRINGSOULは緊急事態宣言下の要請に従いアルコール類の提供をやめ、本来の営業時間をずらして昼からあけていたので藤永のインタビューは来店客の応対でしばしば中断した。このため彼が接客から戻ってくるたび思いつくまま話が唐突に横道に逸れていった。それが功を奏してくれて、思いがけないエピソードを拾うこととなる。
藤永「そもそも以前はプロレスラーじゃなくイベントや興行を企画する側だったんです。プロレスの有料イベントを最初に企画したの僕じゃないかと。全日本プロレスで選手が大量離脱をしたとき、元子さんのトークショーを開催したりとか」
メモを取る手が止まり思わず「えっ?」と声を上げた。
「元子さんて、あの元子さんのことですか?」
馬場元子さんの名前が上がったとたんプロレス記者の血中酸素フォワードが上昇した。
2000年に起こった全日本プロレス選手大量離脱事件後。当時プロレスマスコミ各社が馬場元子さんから真相を聞きたがった。が、元子さんは頑として沈黙を貫きマスコミをシャットアウトした。そんなとき唯一元子さんのトークイベント開催を実現出来た主宰者が、なんと藤永だったと言う。
―どうしてそんな離れ業が可能だったのですか?