プレミアム音声サービス「NowVoice」(https://voice.nowdo.net)に、2月19日より新たなトップランナーとして日本プロレス殿堂会に賛同メンバーとして名を連ねるジャイアント馬場、アントニオ猪木、藤波辰爾、長州力、天龍源一郎が参画した。今後も、ここでしか聴けない本音の「声」がユーザーに届けられる。
画像はNowVoice提供
▽ジャイアント馬場氏(株式会社 H.J.T.Production 代表取締役 緒方公俊様)よりコメント
私は、ジャイアント馬場氏の権利・肖像権を管理する株式会社H.J.T.Productionの緒方公俊と申します。
23回忌という節目の年に馬場氏の声を残させて頂けること、Now Voice様に感謝致します。皆さまに声を通して懐かしさを感じて頂けたら幸いです。
※「NowVoice」からは生前に収録された「東洋の巨人ジャイアント馬場の語り 1990年6月30日後楽園ホール大会終了後インタビュー」音声の初回投稿が発表されている。
▽アントニオ猪木氏の所属事務所コーラルゼット社よりコメント
アントニオ猪木は現在腰痛の治療の為入院中ですが、退院しましたら本企画にも積極的に取り組まさせて頂きます。応援よろしくお願い致します。
※「NowVoice」からは療養前に収録された音声の初回投稿が発表されている。
▽藤波辰爾氏よりコメント
今までに無い試みなので、とても楽しみにしています!プロレスはもちろん日常の事など幅広い内容で皆さんと繋がりたいですね!ぜひご期待くださいね!
▽長州力氏よりコメント
声で今を伝えるとは、面白いですね!少しでも皆様に元気を届けられる様、一生懸命喋りますよ!
▽天龍源一郎氏よりコメント
今は便利な世の中になって言霊を残す方法がたくさんあるけど、ファンの皆サンに直接届くならこうした試みはまた俺たちの世代にとっても挑戦してみる価値があると思う。
天龍源一郎の声がどれだけ伝わるのかも含め楽しみたいと思います!
◆ジャイアント馬場氏 プロフィール
中学時代に野球を本格的に始め、三条実業高校(現・三条商)で大型投手として活躍。
プロ野球のスカウトの目に留まり、高2の秋に中退し読売巨人軍入団。背番号59。
プロ3年目の1957年8月25日、甲子園球場での大阪タイガース(現・阪神)戦で4番手として1軍初登板。59年限りで戦力外通告を受け、その後、大洋ホエールズ(現・DeNA)のキャンプにテスト生として参加するも、風呂場で転倒し左ひじを負傷。
野球の道に終止符を打った。
プロ通算成績は3試合0勝1敗、防御率1.29。
1960年4月、自ら門を叩き日本プロレスに入門し、同年9月デビュー。
63年の力道山死去後は日本マット界のエースとして「十六文キック」などを武器に、巨体を生かした豪快なファイトで全国のファンを魅了した。
1972年10月、全日本プロレスを旗揚げ。
74年には当時最も権威のあったタイトル、NWA世界ヘビー級王座を日本人選手として初めて獲得。また、PWFヘビー級王者としては史上最多の38回連続防衛にも成功した。
1989年には格闘技ブームの渦中にあって、名コピー「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます」が話題に。
アントニオ猪木と共に昭和のプロレス界を代表する国民的大スターであり、かつ全日本プロレスの社長としては80年代にジャンボ鶴田、天龍源一郎、90年代は三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太の四天王ら、日本プロレス界の中心となるトップレスラーを数多く育成した。
デビュー以来84年4月25日に負傷するまで、国内通算3711試合連続出場という前人未到の記録を樹立。93年4月20日には国内通算5000試合出場を達成。
最後の試合出場は98年12月5日、東京・日本武道館大会での6人タッグマッチ。
1999年1月31日、肝不全のため死去。
同年5月2日、東京ドーム大会では「引退」試合として、国内通算5759試合目となるタッグマッチ(G・馬場&ザ・デストロイヤー対B・サンマルチノ&G・キニスキー)がラインアップされた。
◆アントニオ猪木氏 プロフィール
中学2年時に一家でブラジルに移住。
地元の陸上大会で砲丸投げ選手として活躍。1960(昭和35)年、ブラジルを訪れた力道山にスカウトされて17歳で帰国し、日本プロレスに入門。
同年9月30日にデビュー。力道山死去後の64年に米国修行に出発する。
66年、豊登に誘われて東京プロレスに移籍。
23歳の若きエースとなった。67年に日本プロレスに復帰。
ジャイアント馬場とのBI砲で一世を風靡し、69年にはワールド大リーグ戦で初優勝。71年にはUN王座を獲得するも、同年末に日プロのクーデター騒動により退団。72年3月に新日本プロレスを旗揚げした。
エースとして数々の激闘を繰り広げ、日本人対決、さらにはオランダの柔道王、ウィリエム・ルスカ、モハメド・アリらとの異種格闘技戦で世間を巻き込みつつ新日本プロレスを隆盛に導いた。
87年10月には巌流島でマサ斎藤と戦い、89年には旧ソビエト連邦から選手を招聘、初の東京ドーム大会を行うなど、常に豊富なアイデアと実行力でプロレス界を牽引。
同年夏にはスポーツ平和党を結成し、第15回参院選(比例区)で当選。現役プロレスラーとして初の国会議員となる。90年にはイラクで人質となった在留邦人の解放に成功し、95年には北朝鮮・平壌で『平和の祭典』を成功。98年4月4日、55歳で現役引退した。
引退後も縦横無尽に活躍し「1・2・3・ダーッ!!」や闘魂注入ビンタなどのパフォーマンスが、現役時代を知らない世代からも支持。2010年には日本人初のWWE殿堂入りを果たした。
◆藤波辰爾氏 プロフィール
16歳で日本プロレスに入門し、17歳でデビュー。
71年末に日本プロレスを離脱したアントニオ猪木に同行して新日本プロレスの旗揚げに参加。
72年3月の新日本プロレス旗揚げ戦では第1試合に出場している。
75年から欧州、米国、メキシコで海外修行。78年1月に米MSGでWWWFジュニアヘビー級王座を奪取し凱旋帰国。斬新なドラゴン殺法を駆使して一躍スター選手となり、ドラゴン旋風を巻き起こした。
日本国内にジュニアヘビー級というジャンルを築き、81年末にヘビー級転向を宣言。
82年10月にメキシコから帰国した長州力に噛みつかれる形で、長州との抗争に突入。
長州との一騎打ちは「名勝負数え唄」と呼ばれ、80年代のプロレスブームを牽引した。
1988年にビッグバン・ベイダーを破り第3代IWGPヘビー級王者に。同年8月8日(横浜文化体育館)では師匠・猪木を挑戦者に迎えて60分フルタイムのドロー防衛を果たした。
89年には椎間板ヘルニアを患い1年3か月間の欠場。
91年3月には東京ドーム大会でリック・フレアーを破りNWA世界ヘビー級王者に。93年夏には第3回G1クライマックスで優勝するなど、平成時代にも最前線で戦い続け、同時にプロレスの原点回帰を訴え「無我」を旗揚げ。
99年には新日本プロレスの代表取締役社長に就任。
以降、5年間は社長業に忙殺。2006年に新日本プロレスを退団し、無我ワールド・プロレスリング(現・ドラディション)を旗揚げ。2015年3月にはアントニオ猪木に続き、日本人2人目となるWWE殿堂入りを果たした。
◆長州力氏 プロフィール
専修大学時代にレスリングで活躍し、1972年のミュンヘンオリンピックに出場。
翌73年12月に新日本プロレスへ入門し、74年8月8日、東京・日大講堂におけるエル・グレコ戦でデビュー。サソリ固めで勝利する。
デビュー時のリングネームは本名の「吉田光雄」だったが、のちにファンの公募により、
「長州力」に改名。
メキシコ遠征から帰国後の82年、「革命戦士」の称号を得ると、
「俺はお前の噛ませ犬じゃない」と藤波辰巳(現・辰爾)にかみつき、抗争がスタート。
「名勝負数え歌」と称される数々のベストマッチを生んだ。
83年に維新軍団を結成し、新日本を退団。
84年12月にジャパン・プロレスを旗揚げし、主戦場を全日本プロレスに移す。
87年5月、新日本へ復帰。
89年7月にはIWGPヘビー級王座、IWGPタッグ王座の2冠王者に君臨する。
96年8月には「G1 CLIMAX」で初優勝。98年1月4日、東京ドームで現役を引退。
しかし、2000年7月30日、大仁田厚の挑発に腰を上げ、横浜アリーナでの有刺鉄線電流爆破マッチで現役復帰を果たす。
02年5月、新日本退団。
03年3月にWJプロレスを旗揚げしたが、旗揚げシリーズの天龍源一郎との6連戦が3戦で中止になるなど混乱。
翌04年に活動休止となる。04年11月より、ふたたび新日本にUターンし、05年10月に新日本の現場監督に復帰。
06年5月にはリキプロ主催興行「LOCK UP」を始動させる。
その後も新日本を中心に全日本、リアルジャパンプロレス、ドラディション、ドラゴンゲート、ハッスルなど主要団体・イベントに精力的に参戦する。
10年1月より藤波、初代タイガーマスクらとともに「レジェンド ザ プロレスリング」を旗揚げ。
19年6月26日、後楽園ホールで現役を引退。
現役引退後はテレビ番組出演などタレントとして活躍。
◆天龍源一郎氏 プロフィール
1963年12月、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門。64年1月に初土俵、73年1月場所で初入幕し、同場所から16場所在位した。
最高位・西前頭筆頭を務めたが、75年に部屋分裂騒動「押尾川事件」に巻き込まれ、
76年9月場所の東前頭13枚目で8勝7敗の勝ち越しを最後に廃業した。
同年10月、26歳の時にプロレス転向し、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入団。
22年ぶりの現役幕内力士のプロレス転向は大きな話題となった。
マゲを結ったまま76年に米国で実戦デビューを果たし、同年12月5日、日大講堂(旧・両国国技館)、プロレスのリング上で断髪式を行った。
国内デビューは77年6月11日、東京・世田谷区体育館でジャイアント馬場と組み、マリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦でグランデから白星を挙げた。
84年2月23日の蔵前国技館でリッキー・スティムボートを破り、UNヘビー級王座を奪取して初タイトルを獲得。全日本ではジャンボ鶴田との「鶴龍コンビ」、そして、長州力率いるジャパンプロレス軍団との戦いでは激闘を繰り広げた。
長州離脱後の87年6月6日、全日マット活性化のために阿修羅・原と「龍原(りゅうげん)砲」を組み、「レボリューション」を旗印にユニット「天龍同盟」を結成。
89年6月5日の日本武道館でジャンボ鶴田を破り、全日本最高峰のベルト「三冠統一ヘビー級王座」を初戴冠、同年11月タッグ対決ながらジャイアント馬場からのピンフォールを奪った。
90年に新団体「SWS」に移籍し、92年7月に自身の団体「WAR(レッスル・アンド・ロマンス)」を旗揚げ。活動の場を新日本プロレスに広げ、その対抗戦の中で、94年1月4日の東京ドーム大会でアントニオ猪木からピンフォール勝ち。
馬場、猪木のBI砲からピンフォール勝ちを収めた、ただ1人の日本人レスラーとなった。
98年2月からフリーとなり、2000年7月に古巣・全日本プロレスに10年ぶりに電撃復帰。
その後はハッスル、WJ、プロレスリング・ノアなど数々のマットに参戦した。
15年11月15日の両国国技館大会で新日本プロレスのエース、オカダ・カズチカとのシングルマッチを最後に40年のプロレス人生、そして大相撲を含め53年にわたる格闘技生活に幕を下ろした。
現役引退後はタレントとしてテレビ番組出演などで活躍。
◆「NowVoice」サービス詳細
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Now Do株式会社
所在地:東京都中央区日本橋人形町3-12-10 BEAKER 511
代表者:代表取締役社長 本田圭佑
事業内容:スポーツレッスン事業「NowDo」の運営など
URL:http://nowdo.jp/
株式会社運動通信社
所在地:東京都港区西新橋2-19-5 カザマビル2F
代表者:代表取締役社長 黒飛功二朗
事業内容:インターネットスポーツメディア「スポーツブル」の運営など
URL:https://sportsbull.jp/about/company/
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