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[週刊ファイト2月25日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼メタフィクション・プロレス考:映画評つぐない-若草物語-レディ・マクベス
by タダシ☆タナカ
・怪物フローレンス・ピュー初主演作Lady Macbeth:19世紀後半-抑圧-狂気
・『ファイティング・ファミリー』のペイジ役~『ミッドサマー』異教徒論と偏見
・『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』二重構造メタフィクション
・「トラブルだらけだ」と告白する原作者ルイーザ・メイ・オルコットの実像
・フィクションと本当の話を同時に描く映画『つぐない』とプロレスの作り方
・アーティストであるレスラー種族:錯覚ゲーム格闘芸術としてのプロレス
・作り話であることを意図的に客に気づかせる手法と若草物語リメイク考
・プロレス成功・失敗例とメタフィクション権化としてのレスラー稼業定義
・シュートとワークの境界線!虚実入り乱れる結婚スキットや妊娠騒動?
日本ではフローレンス・ピューのことを「ピューちゃん」と呼ぶらしい。なにか書かざるを得ない衝動にかられて、記事にする以上は画像が必要と検索していたら・・・日本未公開作と表記されるものだからずっとないものとばかり思い込んでいたのに、一部では公開されDVDも発売されていることを苦労して作品がオンラインにないかと探し、見終わったあとに知った。その検索から、やはり皆さん語らずにはいられないのか多数の日本語レビューまでも見つける。正直、日本語ではなにもないだろうと思い込んでいたのだが、とんだ見当違いだったことになる。
なにしろ、当時20歳のピューちゃんの本作での怪演が認められて、立て続けに『ファイティング・ファミリー』、『ミッドサマー』の主役、そして『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』の四女エイミー役に抜擢されたのだから、そりゃ皆が騒ぎだして当然だろう。この英国女優が気になったら、もう初主演作もどうしても見たいとなった経緯である。
事前に知っていたのは、「SEX、SEX、SEXの映画」?というのと、「フローレンス・ピューが全裸で体当たり演技」という簡単な評だけ。あとでリーアム・ニーソン主演のアクション映画『トレイン・ミッション』に出ていると知って、ちゃんと見ているものの記憶に残ってなく、あくまで仕事からWWEペイジの実話を元にした『ファイティング・ファミリー』で凄いと思ったのが最初のピューちゃん。次に『ミッドサマー』で圧倒され、『若草物語』で「ほらね、素晴らしい女優でしょう?」となる。本作『レディ・マクベス』からして数々の賞を取っているのだが、若草でのアカデミー賞の助演女優賞ノミネートは当然か。いずれはアカデミー賞間違いナシとまで太鼓判を押せる。眼力が鋭く、ぽっちゃり体型で決してセクシー女優ではないのだが、低い声の演技がどの作品でも強く印象に残るのだ。
マクベスはシェイクスピアの戯曲から派生して、あらゆる物語に付けられているタイトルになる。『メタル・マクベス』なる舞台ロック版だって、ボクが現地で昔に見たドイツ版もあれば、まったく別の日本版もあるのだ。ただ、共通しているのは殺人も犯してしまうマクベス夫人というモチーフである。今回の作品はロシアの作家が1865年に書いたもの。それを英国に置き換えてあり、原作とは結末が違うらしいのだが、基本はロシア貴族に嫁いだ、亭主の半分の年齢の17歳の少女が、だんだんと狂気を帯びて次々と殺人を犯していく筋道であり、割と原書に忠実だそう。また、ショスタコーヴィチによるオペラ版もあり、これもSEX、エロ満載の問題作なんだそうだ。
個人的には「フローレンス・ピューが全裸で体当たり演技」というのをどこかで目にした興味がなかったと言ったらウソになる(笑)。ただ、確かにSEXは多々出てくるもののあくまで文芸作品。最初に出てくるのは後ろ姿の全身だけでぽっちゃりなのだが、これを見て『ファイティング・ファミリー』の監督ステファン・マーチャントが、実在するプロレスラーのペイジ役はピューちゃんしかいないと決めたのだろうから、それは凄いことだとあらためて思った。
プロレスに詳しくない方に解説すると、実物のペイジは細身で顔にせよピューちゃんとは全く違う。マット界内では広く顔も闘い方も知られているペイジの自叙伝的映画である。まったく似てないというのに、よくまぁケツと演技力だけで抜擢したものだ。そしてプロレスをよく知らない方に見てもらっても推薦できる、実話を元にした感動の必見作となったのであった。
『ファイティング・ファミリー』のペイジ役~『ミッドサマー』異教徒論と偏見
長身の英国人ステファン・マーチャント脚本&監督を囲むプロレス家族ナイトの兄、母と、左から実物ペイジ、隣が主演フローレンス・ピュー(photo by George Napolitano 週刊ファイト特約)
英語版でなんとか見れた手前、単にカネで買われた新郎の父と教会に行った場面というだけなのか、肝心の新郎が出席してない奇妙な結婚式なのか確証ないままなんだが、白いベールかぶった新婦ピューちゃんの場面が序盤にくる。そして初夜?になるのだが、それが前出の「後ろ姿だが全裸になる場面」なのだ。なんと、そこで新郎は「服を脱げ、壁に向かえ」と命令するんだが、その後ろ姿、いや、ふくよかなお尻でシコシコとオナニーを始めるのだ。
普通は前向きで「股を開け」だと思うんだが、この貴族はそういう男なのである。そして出し終えると、さっさと一人で寝てしまうという・・・。
ただ、ではこの結局は殺されることになる貴族は変人、あるいは変態なのかと決めつけてはいけないところがミソでもあり、なんであれ偏見を持ってはいけないことを女性監督グレタ・ガーウィグの2019年版『若草物語』が示唆してくれるのだから、ピューちゃん作品は全部繋がっているとの発見の始まりでもある。
なにしろ若草物語が出版されたのは南北戦争が終わって3年後になる1868年から1869年のこと。女性は例のバネ?が入った膨らむ長いスカートで、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラよろしく、コルセットでキツく締められる。このコルセットの紐をぎゅっと絞る場面が『レディ・マクベス』に数度出てきて、時代背景と「女性抑圧」の象徴であることは述べるまでもない。
ということで、本作と『若草物語』は原著のロシア、映画版の英国、そして米国マサチューセッツ州の田舎町と舞台こそ違え、ほぼ同じ時代だと気が付く次第なのだ。さらに探求すれば、設定こそ現代だが、主人公ピューちゃんが狂気に覚醒していくところは『ミッドサマー』も『レディ・マクベス』も同一となろう。『ミッドサマー』が余りに凄かったから、念のため監督アリ・アスターの前作『ヘレディタリー/継承』も見たんだが、こちらはホラー映画はボクの趣味ではないこともあり、気持ち悪いだけだったものの、「宗教とプロレス:夏至祭映画『ミッドサマー』の異教徒とFake news2020」と題してメタル信者との相関までも深く考察する記事を発表している。『ミッドサマー』をホラー映画とは思ってない。圧倒的にリアリティがあるからだ。
その異教徒論や偏見の課題とも直結するのだが、グレタ・ガーウィグ監督版の『Little Women若草物語』の二重構造手法に繋がっていくのである。
『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』二重構造メタフィクション
若草物語となれば、なにしろ学級図書館の定番とか、アニメシリーズや漫画本もあった。日米に絞っても無数のTV版が存在することもあり、2019年版の邦題『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』にせよ、そりゃもうレビュー数だけでも『レディ・マクベス』の比ではない。
もっともボクに関するなら、そんな有名な原作を読んだことがないまま。各種シリーズ版も見たことがない(と思う)。ウィノナ・ライダーが主人公の小説家ジョー役だった1994年公開の映画で、初めてきっちり見たのが正直なところ。当時ニューヨーク在住で、同年の『Reality Bites』が等身大で非常に良かったから、ウィノナ・ライダー目当てにHBOに降りてきた時にじっくり見た、S-VHSにもわざわざ録画して残したのを覚えている。
今でこそウィノナ・ライダー主演からの順番で番宣されてるが、公開段階ではミュージシャンと同棲しているロック派で、他の大物女優陣に交じっての演技合戦は果たして大丈夫なのかと、文芸作品のキャスティングが危惧されていたものだ。また、2001年に約5500ドルの商品を万引きして逮捕された際は公判中継がCNNであり、やっぱり”リアリティ・バイツ”だと笑われていたものである。まぁその『Reality Bites』も『若草物語』も印象に残っているし、好きな女優さんの一人であることは変わってないんだが・・・。
最新作の映画版、かなり違うというか、舞台設定は19世紀後半のままなんだが、監督の意図は今なのだ。これは後出しジャンケン、検索から知ったことなんだが映画化に絞っても1933年の主演キャサリン・ヘプバーン、1949年版は若きエリザベス・テイラーがエイミー役など、他国語版まで入れたら豊富にある。但し、テレビでやっているのを途中から見たとかはあったかもだが、どっちみちウィノナ・ライダー版のと物語自体は一緒の進行なんだという。
ところが脚本・監督グレタ・ガーウィグの新作は、ライター志望の主人公ジョーが最後は年配のドイツ人先生と結婚となるhappy endingもちゃんと見せるのだが、それは出版社が「そうしないと売れない」と諭されたからであり、ジョー自身は結婚なんかしてないというのも見せてしまうのである。
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初期の映画チラシにある通り、順番はエマ・トンプソン、メリル・ストリープと、名の通った有名女優の表記が大きいというのは、ウィノナ・ライダーの公開時と一緒だなぁと笑ってしまうのだが・・・。本作はやはり二女ジョー役、『レディ・バード』でも監督とコンビを組んだアイルランド出身のシアーシャ・ローナン、四女エイミー役の英国人フローレンス・ピューが輝いている。アメリカ映画だから大女優メリル・ストリープ、お母さん役のローラ・ダーンの序列が上なのは仕方ないのだが、さて10年後とかに番宣の順序がどうなっていることやら。
脱線ついでに記すなら、お父さん役がボブ・オデンカークで、知らずに見ていて顔を見てビックリ。なにしろ『ブレイキング・バッド』の悪徳弁護士にして、スピンオフ作『ベター・コール・ソウル』では主役を務めたコメディアン俳優である。もっともこれまたあとから調べてわかったことだが、本作では脇役なのでその面は出てこないものの、このカソリックやプロテスタントとも違う、ヒッピー系過激思想な変人?牧師のせいで、原作者ルイーザ・メイ・オルコットや姉妹はああなったということらしい。これは後付けで納得したのであるが。
「トラブルだらけだ」と告白する原作者ルイーザ・メイ・オルコットの実像
『レディ・バード』は脚本&監督グレタ・ガーウィグの自叙伝的作品で主人公は自身をLady Birdと称する。
この新作は原作本に加えて作者ルイーザ・メイ・オルコットの「トラブルだらけだった」と告白する実像を加味するから、かの二重構造の結末にしたそうだ。自身のことを「ずっと女の身体だけど男だと思って生きてきた」という本人証言からも、実物のルイーザは生涯独身である。性同一性障害だったようで、無論のこと19世紀にはそんな言葉も概念もなかった。さらに表象こそなくとも、ルイーザが「変わった人」であったことは知られていたそうだ。なんと結婚やロマンスも複数回しているキャサリン・ヘップバーンもまた、男のパートナーとはSEXなんかしない実人生だったそうな。だからキャスティングされたんだという。さすが進歩的な映画人は当時からわかってくれたことになろう。
なにしろ美貌のキャサリン・ヘップバーンはオスカーを4回受賞した唯一の俳優、ベスト女優1位の常連、大御所中の大御所スターなんだが、当時は珍しかったパンツルックが日常生活で、少女時代は自身を男の子の名前ジミーと称していたという。
『ストーリー・オブ・マイライフ』、なぜに物語の女主人公の名前が男の子のジョーなのか。また、正式な名前はセオドア・ローレンスながら、幼なじみの姉妹たちからは女の子の名前ローリーと呼ばれ、二女ジョーにプロポーズするものの、最終的には四女エイミーと結婚する設定の意味が、本作リメイク版で初めて明確になった。つまり、ジョーとローリーはともに中性人種であり、だから「結婚はうまくいかない」とジョーが断るのである。ちなみに94年版映画のローリー役は若きクリスチャン・ベール。但し役柄に中性的な示唆はない。
なにしろ基本は少女向けに書かれた児童小説である。出版社のボスは特に乗り気でなかったのに、自身の娘たちが生原稿を読んで夢中になり、「続きはどうなの?」とせがむ描写が挿入されている。これはJ・K・ローリングという、男だか女なのかわからないペンネーム、離婚して苦労していた無名作家の『ハリー・ポッター』が世に出た際の逸話をアレンジしたのであろう。
ジョーは出版社の求めに応じて怪奇小説を書いて小銭を稼ぐところからセミプロなんだが、かのドイツ人先生に「こういうのが好きなのか?」と厳しいことを言われる。「もっと自身の内面を解き放って書いたらどうか」と諭された時点では、勝気なジョーは怒るだけなんだが、やがて三女べスの死を契機に、For Bethとの仮題でLittle Womenの執筆が始まるのだ。
フィクションと本当の話を同時に描く映画『つぐない』とプロレスの作り方
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さて、他の映画評論家の発見というか、ボクがまったく気が付かなかった箇所まで無断でパクるのはご法度なので、これは町山智浩の『映画ムダ話』からだとクレジットしておきたいが、「恐らく脚本・監督グレタ・ガーウィグは、13歳当時のシアーシャ・ローナンが出ていた映画『つぐない』をヒントにした」そうだ。
え? その作品ならボクも見たゾと。なにしろ、映画『ダンケルク』がヒットして、それは映画館で見ないといけない作品ということもあり、劇場に足を運んだものだが、それが洋画専門チャンネルに降りてきた時、一緒に、ゲイリー・オールドマンが凄いメイクでチャーチル首相に化けて演じた『ウインストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』や、原作は『贖罪』の2007年の映画『つぐない』もダンケルクが舞台という括りで続けてやっていたからだ。あと、ジャン・ポール・ベルモンドのフランス映画もあったけど。
そういう続けてやったのをそのままつけっぱなしにしただけなので、予備知識もなんもなかったのだが面白かった。『つぐない』は確かに舞台こそダンケルクの戦いであるものの、あんまり関係ないというか、キーラ・ナイトレー演じる主人公の妹役、しかも18歳、老年はそれぞれ別の女優が演じるのだが、最初の鍵となる13歳の役を演じたのが、マイ・ストーリー若草物語のジョー役、シアーシャ・ローナンの子役デビューだったのだ(画像左下と右)。いや、さすがに町山さんに教えられるまで、そこまで注意払ってなかったのだが・・・。
今回のような技法にメタフィクションなる用語があると知ったのはマイ・ストーリー若草物語を見終わったあとのこと。『つぐない』もまた、小説上は晴れてキーラ・ナイトリーとジェームス・マカヴォイが結ばれるhappy endingであり、その描写も映画に出ては来るのだが、実際はダンケルクの戦いで亡くなってしまう。
ライター志望の妹が嘘の証言をしたために、レイプ犯としてマカヴォイが刑務所行きになるなど長年苦しめたのが本当の話で、だから晩年を演じるヴァネッサ・レッドグレイヴもずっと苦しんでいて、エンディングで「ごめんなさい」と罪を償う告白をする二重構造、メタフィクションの手法が採られるのである。
なるほど、そういうことか。便利な物言であり腑に落ちたのだ。もっとも用語を知ってるから偉いわけではない。1979年、世界で最初の学生プロレス団体DWAが大会を成功させた時点で、誰もJobだのアップダウンと業界用語は知らなかった。ただ、暴露本とかなにもなかった時代ながら、プロレスの仕組みも現場の試合の作り方も完璧にわかっていた。それだけのことだ。
ようやく話しを『レディ・マクベス』に戻すなら、妻を娶っても、お尻見ながらマスかくだけでHしようとしない貴族の男を、「変わった奴だ」と片付けていいのかの振り出しに帰結する。あるいは、夫とHもしてもらえず、屋敷の使用人とのSEXにおぼれていくピューちゃん演じるキャサリンは、殺人を繰り返してしまう性悪女なのか否か。さらには『若草物語』を世に出し、超ベストセラー作家となったルイーザ先生だけど、性同一障害に悩み、出版社に「これじゃ売れない」と言われたから、家族の自叙伝的内容とされながらも商業ライターとして「楽しさ」を強調、印刷されたものは作者の意図とは違うものだったことでも悩んだんじゃなかろうかと、延々とチェーンが繋がっていくのである。もちろん『ミッドサマー』の異教徒を悪だと否定する権利は誰にもない。
カナダ人監督ノーマン・ジェイソン作品の市販DVDは、監督本人による音声解説入りなのが買う価値になり、そういうのはさすがに洋画専門チャンネルでは出てこないものである。例えばスティーブ・マックイーン主演の1965年『シンシナティ・キッド』だと、あのエンディングは監督の意図したものではなくて、映画会社から「これじゃカードゲームに敗れる主人公以下、どこにも救いがなくなるから、ちっとは明るい希望の絵にしろ」と変更させられたと証言している。まぁ、世の中そんなモンだろう。しかも、アドバイスに従ったおかげで売れたりするんだから、アーティストとしてはさらに悩んでしまう。「俺の考えた結末じゃ、ダメだったのか」と。
あるいは『ブレードランナー』、リドリー・スコット監督は何度結末を変えたり、バージョン違いが存在するのかという話の方が広く知られているかもしれない。
そこに、両方を見せてしまうメタフィクションの手法があるということ。リメイク映画作品というのは、えてして「オリジナルの方が良かった」と評されてしまう宿命があるが、今回の若草物語はズバ抜けていると評価が高いのは、原作者ルイーザ・メイ・オルコットの謎解きにも踏み込んだ点にある。そのことで、むしろ今の物語に昇華しているのだ。
アーティストであるレスラー種族:錯覚ゲーム格闘芸術としてのプロレス
そこで、本題としてのプロレスのメタフィクション考である。