『次課・長州の力旅』今回の長州力が探るのは、渋谷駅と昭和家電

 BSフジで不定期放送されている、長州力の冠番組『次課・長州の力旅』。長州力とお笑いコンビの次長課長(河本準一&井上聡)が、マニアックな事情通の先生と共に、世の中の謎を探る。
 今シリーズの第2弾には、どんなマニアが待ち受けているのだろうか。

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大正時代の渋谷はド田舎だった!? 渋谷ダンジョンの謎を紐解く

 オープニングで長州力は、次課長の河本に「日光浴とかされてましたか?」と訊かれると、孫と一緒に自宅の屋上で楽しんでいたという。しかも「たまにアンドレが来て……」と、いきなりテッパンのアンドレ・ネタ。河本は、アンドレだったら立ったまま屋上を覗けるでしょう、とノッて来る。初っ端でのアンドレ・ネタは珍しい。

 3人がやって来たのは、東京都世田谷区の三軒茶屋にある昭和女子大学。今回の事情通は、渋谷駅マニアの田村圭介先生(50歳)だ。渋谷駅は、言わずと知れた東京を代表するターミナル駅。9つもの路線が渋谷駅に乗り入れ、地上3階、地下5階の建物となっている複雑な構造である。大阪の梅田駅も『梅田ダンジョン』と呼ばれる迷路のような駅だが、渋谷駅もそれに劣らない。

 昭和女子大学で環境デザイン学部の准教授として教鞭をとる田村先生は、渋谷駅の模型を作ってしまったほどの渋谷駅マニアだ。渋谷駅を毎日利用する田村先生ですら、いつも通るルート以外では迷子になってしまうので、駅の構造を理解するために渋谷駅の模型を作ったのだという。
 田村先生は、渋谷駅の模型を大小50個ほど作ったんだとか。渋谷駅には135年もの歴史があり、その進化に合わせて模型を作った。田村先生によると、開業当時の渋谷駅はプラットホームが1つしかなかったという。そこから増殖していって、現在のような渋谷駅になった。

 田村先生は、普通の駅はプラットホームが並行しているが、渋谷駅は立体的に交差しており、世界的に珍しい駅構造だと説明する。渋谷駅に匹敵する巨大ターミナルの新宿駅はプラットホームが並行で、渋谷駅との違いは一目瞭然だ。

 では何故、渋谷駅はこんな複雑な構造になったのか? 長州は「土地が狭くて広さがないから」と答える。長州の答えは正解に近く、渋谷駅の構造の秘密は地形にあった。
 渋谷はその名の通り谷になっており、他の主な東京のターミナル駅は丘の上や平地にある。そのため駅を拡張できたが、渋谷駅は土地がなくてそれが不可能だったため、複雑な構造にならざるを得なかった。番組の中で言ってなかったので補足すると、東京メトロ銀座線の渋谷駅が地下鉄でありながら地上3階という高い位置にあるのは、渋谷駅に行くまでの線路部分は地下でも、渋谷が谷になっているため、他の場所での地下と同じ高さなのに高架になってしまうのだ。
 長州は「今までで一番しっかりした先生だと思うよ」と、なぜか上から目線で田村先生を褒める。河本は「先生、これは最大級の誉め言葉ですよ」と言った。

 渋谷駅が完成したのは1885年、つまり明治18年だ。日清戦争勃発の9年前である。渋谷駅は、当時は品川線と呼んでいた路線(現:山手線)の駅として開業。さて、開業した日の乗降客数は何人だったか? と田村先生が出題した。長州は「ヘタすれば多いかも判んないけど、俺は少ないと思う」とレスラーらしからぬ曖昧な答え。次課長の井上が「数で言ってください」とツッコむと、長州は「千人前後」と答えた。果たして正解は?
 正解は、なんと0人。開業当時の渋谷駅は、貨物専用駅だったのだ。それが現在では、1日平均で約250万人という、世界で2番目に乗降客数の多い駅となっている(世界一は新宿駅)。

 しかし、こんなに立地条件の悪い渋谷駅がなぜ、巨大なターミナル駅に変貌したのか? それには理由が2つあって、1つ目は1923年に発生した関東大震災。この地震によって人々の意識が変わり、多くの人が郊外に住むようになった。そこで、郊外から都心にやって来る人が、渋谷駅を利用するようになったのである。
 ちなみに、この頃の都心は銀座や丸の内だったという。100年前、つまり『鬼滅の刃』の舞台となった大正時代の渋谷は、今からは想像できないド田舎だったらしい。

 もう1つの要因は、東急グループを築いた五島慶太の存在。五島慶太は、番組内では言ってなかったが『電鉄王』と呼ばれ、周辺の私鉄を次々と買収したため『強盗慶太』の異名を持つ剛腕として知られている。
 田村先生によると、五島慶太が渋谷を作ったと言っても過言ではないらしい。現在でいう東京メトロの銀座線は、浅草、日本橋、銀座など、当時の東京を代表する歓楽街を通っている。五島慶太は、その銀座線を強引に渋谷駅へ繋げたのだ。もし五島慶太がいなければ、銀座線は新橋から品川へ抜けるルートになっていたという。つまり、渋谷には通らなかったわけだ。当時の繁華街と、ド田舎だった渋谷を繋げることにより、渋谷が飛躍的に発展したのである。井上は「銀座線が渋谷に繋がらなかったら、ハロウィンとか銀座でやってたの?」と言った。
 また、銀座線の渋谷駅が地上3階にあるのも、渋谷駅が谷であるという点と、銀座線ホームを東急デパートに直結させて、乗客を買い物客に取り込むという五島慶太の狙いもあったという。

 渋谷駅を巡る旅が終わり、ここで恒例となった長州による締めの一句。

  凡人の見る夢は 学ぶべき

 もはや俳句でも川柳でもなく、ただの一文だ。長州の一句はどんどん酷くなっている気がする。

長州がカラーテレビを買った理由は、女性パンツの色を知りたいから

 3人が次に会ったのは、東京都足立区の竹の塚で会社経営をしているという松崎順一先生(60歳)。松崎先生は、昭和家電の事情通だ。昭和家電を好き過ぎるあまり、松崎先生は42歳で脱サラし、昭和家電の修理や貸し出しを行う会社を運営しているという。
 集めた昭和家電は約5千点、NHKの朝ドラにも昭和家電を提供したそうだ。

 松崎先生は、戦後間もない1954年に発売された東芝製の真空管ラジオを紹介。長州は「ラジオが壊れた時、親父が叩いてた」と思い出を語ると、松崎先生は「昔の家電って基盤ではなく、配線で繋いでいたので叩くと本当に直ったんです。でも、今の家電は叩くと壊れます」と説明した。
 さらに長州は、1966年に発売された三菱製の電気釜を指さして思い出を語る。
「よく、このフタを投げ付けられたな、お袋に。殴られたり、バーンって投げられたり」
 井上は「何をヤンチャしたら、そうなるんですか?」と幼き頃の長州の行動に疑問を持った。ちなみに、この電気釜で今でもご飯を炊けるらしい。

 松崎先生は、小学生の頃から電子工作を始めて、小学三年生ぐらいから秋葉原に通っていたという。一人で秋葉原に部品を買いに行き、回路図を書いていたそうだ。そして、60歳になった今でもほぼ同じ、と松崎先生は笑った。
 そんな松崎先生の好きなジャンルは『やっちゃった家電』。昭和はイケイケの時代で、色々なアイデアが浮かぶとドンドン形にしてしまったらしい。そのため、今では有り得ない家電が数多く生まれたという。

 そんな『やっちゃった家電』、まず紹介したのは、1976年に発売されたパナソニック製の『ラテカセ』。ラジカセに、ある物を合体させて失敗した家電だが、いったい何をくっつけたのか。『ラテカセ』とはもちろん略称だが、何の略称なのか。
 長州は「盗聴器かなんかで、家の中に置いといて……」と言うと、河本が「ああ、盗聴器カセットを略して『ラテカセ』……、どこか略してるんですか?」とツッコんだ。
 正解は「ラジオ・テレビ・カセット」。テレビは一家に1台という時代だったので、持ち運べる『ラテカセ』を個人用のテレビとして売り出そうとした。当時、流行っていたラジカセに、テレビをくっつけたというわけだ。しかし、この頃のテレビは今と違ってブラウン管のため、奥行きが異常に大きく、持ち運びも不便だったという。
 ちなみに、動力源は乾電池。単2電池を12本も使って、半日ぐらいで電池切れしてたんだとか。

 ここで長州が白黒テレビに関する思い出を語る。長州の専修大学レスリング部時代、寮にあったのは白黒テレビ1台だけだった。
 長州が日直の時、白黒テレビを見ていると、女の子が舞台の上で踊っていて、下から風が吹いてスカートがめくれ、「パンツは何色?」という問題が出されて、応募したら商品が貰えるという企画があったらしい。他の日直の連中と「白黒じゃパンツの色、判んねえなあ」と言っていたら、4年生のマネージャーがたまたま部屋に入って来て「お前ら、パンツの色が知りたいか?」と言われ、長州らが「あー、いいですねえ」と言ったら、翌日に40人ぐらいでビルの引っ越しのアルバイトをして、一晩でカラーテレビを買ったという。女性パンツの力は凄い。

▼長州力は女性パンツの色を知りたいがために、バイトしてカラーテレビを買った!?

 さらに『やっちゃった家電』の紹介が続く。1979年発売、シャープ製の電卓の隣りに付随している物は? 正解は、なんとソロバン。電卓の隣りにソロバンって、意味ないやろ!
 これは『ソロカル』という商品名で、何故こんな無意味な商品を開発したのかというと、当時はまだ電卓の性能を疑っている人が多かったので、検算するためにソロバンを付けたという。

 1970年代に『やっちゃった家電』が量産された原因は、1970年に開催された大阪万博。これを機に、家電は一気に進歩したが、その反面『やっちゃった家電』が激増したらしい。
 その大阪万博に展示された『やっちゃった家電』の写真を見て、これは何か? という問題を出した。長州は「これ、お風呂じゃないよね。洗濯機?」と言ったが、これが正解。サンヨー館に展示された『人間洗濯機』という製品で、お湯に洗剤を入れて体ごと洗うという。

 さらに松崎先生は、1980年代の『やっちゃった家電』も紹介する。まずは80年代前半の『どんでんがえし』というテレビ。なんと、左右逆に映るテレビなのだ。それって、何の意味があるの? つまり、美容室などにテレビを置く場合、鏡に映すと画面を正常に見られるという。しかし全く普及せず、さすがの松崎先生も『どんでんがえし』は探しても見つからなかったそうだ。
 80年代後半はバブルの時代。この頃になると、メーカーが家電に投資するようになり、デザインも自社で考案するのではなく、海外の有名デザイナーに依頼するようになった。
 フィリップス製の『Discoverer』という、ヘルメット型のテレビ。全く無駄なデザインだらけで、14型のテレビなのに大きすぎて台に置けず、さらに当時はテレビの上に物を置くことが多かったが、丸いのでそれもできない。しかも、移動ができない無意味な車輪も付いており、不評で全然売れなかったという。バブル期にはこういう、キテレツなデザインの家電が多かったそうだ。

 昭和家電の旅も終了して、長州による締めの一句。

  未来に向けて 夢見る家電

 これじゃ単なるキャッチ・コピーだ。さて、次回はどんなマニアック事情通が登場するのか?

BSフジ『次課・長州の力旅』公式サイトより


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