[ファイトクラブ]暴走戦士が『世界最強タッグ』に参加しなかった本当の理由

[週刊ファイト10月8日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼暴走戦士が『世界最強タッグ』に参加しなかった本当の理由
 by 井上譲二 photo: George Napolitano/週刊ファイト
・初めてザ・ロード・ウォリアーズと会ったのは83年秋、米オハイオ州の試合会場
・オレイ・アンダーソンのひらめきで83年6月にロード・ウォリアーズ誕生
・チーム結成から1年も経たない段階で大ブレーク
・『世界最強タッグ決定リーグ戦』に参加しなかった理由について当時、いろんな憶測が流れた
・『最強タッグ』に呼ぶのは可能だった



 相棒のホークさん死去(03年10月19日)から17年後の今年9月23日、アニマル(ジョセフ・マイケル・ロウリネイティス)さんもこの世を去った(享年60)。ザ・ロードウィリアーズThe Endである。

 かつて全日プロ、新日プロのリングで闘ったキラー・カン氏、武藤敬司、佐々木健介らがいろんなメディアにアニマルさんとの思い出話しを披露しているので、私はR・ウォリアーズが全日プロの『世界最強タッグ決定リーグ戦』に参加しなかった理由について書くことにした。

1986年4月19日、ジム・クロケット・プロモーションの第一回『メモリアルカップ・タッグトーナメント』に優勝! 参謀のポール・エラリングと。

 私が初めてザ・ロード・ウォリアーズと会ったのは83年秋、米オハイオ州の試合会場だった。

 オハイオ州は70年代半ば頃までジョニー・パワーズ率いるNWFのメインテリトリーだったが、80年代になってからジョージア地区の大物プロモーター、ジム・バーネット氏が進出。R・ウォリアーズは、そのバーネット・オフィスのブッカーであるオレイ・アンダーソンのひらめきによって同年6月に誕生し大々的に売り出されていた。

 とはいえ、私の取材目的は全日プロの外国人エースであるスタン・ハンセンの試合。会場奥にあるステージに立って前座試合を観るR・ウォリアーズの写真を撮ったことは鮮明に覚えているが、彼らの試合をリポートした記憶はない。多分、R・ウォリアーズがリングで闘っているときに他の選手を取材していたのだろう。いま思えば大チョンボである。

 翌84年、R・ウォリアーズはチーム結成から1年も経たない段階で大ブレーク。同年10月に始まったテレビ東京の『世界のプロレス』でR・ウォリアーズの試合が放送されると日本でも人気が急上昇した。

ジョージ・ナポリターノ記者撮影によるトレーニング風景は貴重になる。

 そして、R・ウォリアーズは85年3月に待望の初来日を果たす。

 特筆すべき点はハンセン&ブロディに匹敵する超ド級のパワーファイトもさることながら、R・ウォリアーズの驚異的な集客力だ。

 85年と言えば、全日プロ、新日プロともに景気が落ち込んでいた時期だが、R・ウォリアーズ効果で『激闘!エキサイティング・ウォーズ』のほぼ全大会が超満員に。2人合せて週2万㌦(約400万円=当時のレート)のR・ウォリアーズを招へいすることはジャイアント馬場社長にとって大きな賭けだったが、予想を上回るR・ウォリアーズの興行人気に気を良くして5月と10月のシリーズにも呼んでいる。

 余談ながら、R・ウォリアーズに対する厚遇(高額ギャラ、マッチメーク上の扱い)がブルーザー・ブロディの全日離脱の一因であることは明白。また当時、全日マットに上がっていた長州力も一般誌とのインタビューの中で「いくら何でも1人1万㌦は払い過ぎだろ! バカらしくて『やってられない』という気持ちになるじゃない? 鶴田さんや天龍もそう思っているだろう」と不満をブチまけている。

 さて、日本でも大人気を博しながらR・ウォリアーズが『世界最強タッグ決定リーグ戦』に参加しなかった理由について当時、いろんな憶測が流れた。

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