[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第78回  意外!? 多くのプロモーターにとってアンドレは超が付く優等生だった!!

[週刊ファイト8月20日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第78回
 意外!? 多くのプロモーターにとってアンドレは超が付く優等生だった!!
・そのクレバーさも日米マットで成功を収めた要因の1つ
・ファンを魅了しプロモーターから高い評価をされていた
・アンドレとは本当の信頼関係があったと思う
・アンドレだけは完全ギャランティー制


 27年半前の1993年1月27日、母国フランス・パリのホテルで急性心不全のため亡くなったアンドレ・ザ・ジャイアント(享年46)。日本では大のマスコミ嫌いとして知られていたが、私から見たアンドレは仕事の面で他の一流外国人を上回る協調性があり、彼ほど大物プロモーターと良好な関係を築いたスーパースターはいなかった。規格外の巨体はもちろん、そのクレバーさも日米マットで成功を収めた要因の1つである。


 長いプロレス記者生活を経て編集局長まで上り詰めた桜井康雄氏(故人)を筆頭に、昔の東スポ記者たちは、大物外国人の異名を思いつく天才だった。

 ルー・テーズ=鉄人、ブルーノ・サンマルチノ=人間発電所、ボボ・ブラジル=黒い魔人、フリッツ・フォン・エリック=鉄の爪、ジン・キニスキー=荒法師・・・。上記の異名は彼らのファイトスタイルにピッタリ合ううえ、ファンタジー性を増した。

ついに40周年の節目を迎えた1980年8月9日『SHOWDOWN at Shea』一塁側ダッグアウトでのパット・パターソンとボーイフレンドのルイ、女子王者スーザン・セクストンとアンドレらベビーフェイス陣営。

 もっとも、私が1番感心したのは、アンドレ・ザ・ジャイアント=大巨人。ただの巨人にすると、60年代前半に米マットで巨人レスラーとして脚光を浴びたショウヘイ・ババ、アーニー・ラッド、ザ・ケンタッキアンズのジェーク・スミスらと同等の扱いになるし、1面の見出しの場合、プロ野球・巨人の記事と間違われる懸念も出てくる。

 恐らく、この2つの理由で「大巨人」と名付けたと思うが、これほど異論も違和感もない外国人レスラーのニックネームはなかった。

 その異名通り、並み(?)の巨人レスラーを上回る規格外の巨体がアンドレの最大のセールポイント。だが、それだけで超売れっ子になれるほど米マットは甘くない。晩年こそ足腰が衰え見世物的なレスラーに成り下がっていたアンドレだが、少なくとも80年代初め頃までは、いろんなファイトスタイルでファンを魅了しプロモーターから高い評価をされていた。

 中でもアントニオ猪木との初シングル(74年3・15岡山武道館)は、リングサイドで戦況を見守った中堅、若手も唸るほどの名勝負。その頃は、この試合で猪木に見舞ったフライング・ボディープレスをはじめ、ツームストーンパイルドライバー、ハイキックなど豪快な技を繰り出す一方で、グラウンドにも対応できていた。また、米マットにおけるアンドレにはハンディキャップマッチやバトルロイヤルもよく組まれ、ユーモア溢れる闘いぶりで観客を楽しませていた。対戦相手や試合形式、さらに開催地のファン気質によって闘い方を使い分ける全盛期のアンドレこそ真のオールラウンドと言えるかもしれない。

 アンドレは70年代の中盤頃から個人契約を結ぶマクマホンSR氏のブッキングで全米のみならず日本やメキシコ、西ドイツにも進出。観客動員に貢献して高い評価を受けたが、一方で各地区のプロモーターの共通したアンドレ評もあった。

1978年12月18日、ニューヨークMSGでビンス・マクマホンSRから世界マーシャルアーツ王者に認定されたアントニオ猪木

※月額999円ファイトクラブで読む(クレジットカード、銀行振込対応)
▼実録アンドレ・ザ・ジャイアント~追悼・人間発電所~頑固Bバックランンド

[ファイトクラブ]実録アンドレ・ザ・ジャイアント~追悼・人間発電所~頑固Bバックランンド

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン