BS-TBS『ドキュメントJ』が、渕正信のプロレス人生を追う!

 3月14日、BS-TBSの『ドキュメントJ』という番組で、渕正信の特集が放送された。題して『我がプロレス人生66年~渕正信リング上の美学』である。
 20歳の時に、全日本プロレスに入門して以来46年、渕は全日一筋。集合離散が激しいプロレス界では珍しいことだ。

 現在でも現役であり続ける渕。しかし、最近ではあまり試合には出場していない。
 そんな渕は、どのようなプロレス人生を歩んできたのだろうか。テレビカメラが180日間、渕正信に密着した。


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▼渕正信セミリタイア 彼のプロレス人生は恵まれていたのか?

[ファイトクラブ]渕正信セミリタイア 彼のプロレス人生は恵まれていたのか?

新人に月給6万円、恵まれていたプロレス黄金時代

 1974年4月10日、渕正信は大学を中退して全日本プロレスに入門した。全日の設立は1972年10月だから、団体が誕生して1年半後である。社長兼エースはもちろんジャイアント馬場。当時は全日本プロレスも、日本テレビのゴールデン・タイムで定期放送していた。

 入門してから僅か12日後の4月22日、渕は大仁田厚を相手に異例の早いデビュー戦を迎える。そんな渕の“初任給”は月給6万円だったという。既にデビューしていたとは言え、海の物とも山の物とも判らないド新人に、1974年当時の月給6万円は大きい。1シリーズが2ヵ月にわたれば12万円である。
 その後、試合給が1試合1万5千円となり、1シリーズが30試合だとすれば45万円の給料となっていた。そこから税金や厚生年金を引かれても約40万円だ。22,3歳の前座に過ぎないプロレスラーが、同年代の大卒サラリーマンよりも遥かに高い給料を得ていたのである。まさしくプロレス黄金時代による産物だ。現在のインディー団体から見れば羨ましい限りだろう。
 当時のギャラは銀行振り込みではなく現金だったため、給料を貰って六本木の近くを歩いた時、体が震えたと渕は語る。

 入門から6年後の1980年、渕は若手レスラーにとっての登龍門であるアメリカ遠征へ旅立った。その時のタッグ・パートナーは大仁田厚。州のタッグ王者となり、タイトル・マッチのファイト・マネーは千ドルだったという。当時のレートでは日本円で20~25万円ぐらいである。
 スタン・ハンセンが新人だった時、週給で千ドルが目標だったというが、渕はたった1試合でそれと同じギャラを稼いでいたわけだ。その頃の渕は、週給2千5百ドルも得ていた。

 当時のパートナーだった大仁田厚は、4歳年上の渕正信についてこう語る。
「あの人(渕)のいいところって、ちゃんと『大仁田君』と言っていたことですね。今でも『大仁田君』。いい歳こいて『大仁田君』はねえだろ、みたいな(笑)。ゴーイング・マイウェイの人でしたね。他人とは揉めない人でした。俺は契約面でプロモーターと揉めて、ギャラも貰えない状況で。でも渕さんはひょうひょうとして、僕の分のギャラまで貰って来てくれて。『大仁田君の問題と俺(渕)の問題は関係ないから』って。有難いんだけど、もうちょっと俺と一緒に燃えてくれよ、タッグ・パートナーなんだから(苦笑)」

▼渕正信と大仁田厚は、あらゆる面で好対照のコンビだった

全日レスラーながら、新日ファンから大歓声を浴びた渕正信

 海外修行を終えた渕は世界Jr.ヘビー級チャンピオンとなり、全日本プロレスの黄金期を支えた。前座から脱したとはいえ、前座では『悪役商会』の一員として『ファミリー軍団』のジャイアント馬場と試合をすることが多くなる。渕は、馬場に憧れて全日本プロレスの門を叩いたのだ。
「緊張はしたんだけど、馬場さんと試合をやれるんだ、という嬉しさはありましたね」
と渕は語った。

 しかし、その馬場も1999年1月31日に逝去。まだ61歳の若さだった。渕は馬場の死を、こう振り返る。
「馬場さんは僕にとってヒーローで、そのヒーローが死ぬなんて、幼い考えかも知れないけど、思い付かなかったんですよね。自分の中で一つの時代が終わった、という考えがありましたね」

 そして翌2000年5月13日には、渕が兄貴分として慕っていた完全無欠のエース、ジャンボ鶴田も亡くなる。
「鶴田さんとは歳も近いし、身近なスーパースターでしたね。馬場さんにはプロレス人生を頂いて、鶴田さんとは青春を一緒に歩んだというかね……」
 渕は大切な人を、2人も立て続けに失ったのだ。

 その1ヵ月後の2000年6月、馬場の死後に全日本プロレスの新社長に就任していた三沢光晴が全日を離脱、プロレスリング・ノアを設立する。ほとんどの全日レスラーがノアへ移籍し、全日本プロレスのレスラーは渕正信と川田利明の2人だけとなった。
 ちょうどその頃、渕は北九州の実家に帰っていたという。そこへ川田から電話が掛かってきた。
「川田が『僕は全日本プロレスが好きです』って言うわけですよ。僕は『全日本は選手もテレビもなくなったんだから、会社自体がもう成り立たないだろ。お前はどこへ行っても通用する選手だし、俺はもう歳だから辞めるよ』と言ったんです。でも川田は『いや、(馬場)元子さんがやる気でいますから。渕さんが帰って来るのを待ってます』って。あの時の川田の情熱は凄かったね」

▼選手大量離脱により、たった2人だけ全日本プロレスに残った川田利明と渕正信(右後ろ)
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 2人だけの再出発となった全日本プロレス、渕はライバル団体の新日本プロレスに乗り込んだ。新日のリング上で渕は、新日本プロレス・ファンに向かってこう宣言する。
「30年、この長い間、全日本プロレスと新日本プロレスの間には、常に大きな壁がありました。その壁を今日、ブチ破りに来ました。たった2人しかいない全日本プロレスですが、看板の重さもプライドも、新日本には負けておりません!」

 この時の様子を『ワールドプロレスリング』で実況した辻よしなりアナが述懐した。
「360度アウェーの中で、新日本プロレスのリングに、全日本の選手が上がるんですよ。その時の新日と全日の壁たるや、高い高い。そこに独りで乗り込んできて、あのマイク・パフォーマンスだったじゃないですか。あれを聞いて僕も震えましたけど、新日ファンからの拍手も鳴り止まなかった。凄い人だなあ、と。天国にいる馬場さんに聞こえるかのようなメッセージでした」
 全日本プロレスにアレルギーを持っていた新日ファンを虜にした渕に、辻アナは驚愕したのだ。

 大仁田厚も「渕さんって寡黙だと思われていて、自分の殻を破れないっていうのがあったんだけど、あれは驚きましたね。あんなことをする人だったんだ、と。あの人は全日本をこよなく愛していた。全日本プロレスって語るなら、やっぱり渕さんでしょうね」と言う。
 そして、犬猿の仲だった全日本プロレスと新日本プロレスの対抗戦が始まり、全日は甦った。

全日本プロレスとジャイアント馬場への、渕正信の思い

 全日本プロレス一筋の渕にも、他団体から高額の引き抜き話があったらしい。団体名は明かさなかったが、渕の目の前に現金が積まれた。
 引き抜き話はラッシャー木村にもあったが、渕は木村に「僕は行かないけど、木村さんも行かないでしょ?」と言ったら、木村も「知らない会社に行くのは面倒だしなあ」と答えたという。

 現在の渕はご存じの通り、未だに独身。4年前に東京のマンションを引き払い、埼玉県加須市の一軒家に、妹と甥っ子の4人で住んでいる。35年前、母親のために建てた家だ。今では試合やトークショーのため月に数回、東京へ行くという。
 地方巡業がほとんどなくなり、東京近郊での試合ばかりになって試合数は激減。そのことに関し、寂しいというより有難く感じるようになったのは、年をとった証拠かな、と渕は笑った。

 渕は東京・新橋へ足を運ぶ。そこにはジャイアント馬場の死後21年目となる2020年1月31日にオープンした『ジャイアント馬場バル』があった。馬場に関するコレクションが展示されている飲食店である。
 さらに渕は、兵庫県明石市へ飛んだ。故・馬場元子夫人の実家があり、そこにジャイアント馬場が眠っている。渕は馬場夫妻の墓前に手を合わせた。
「こっちから一方的に挨拶しただけで、馬場さんから声は聞こえてないんだけど、何て言ってくれてるのかなあ。馬場さんが亡くなった歳をもう、5歳も超えてしまったからね。もういい加減引退しろよ、と言ってるかも知れないね(笑)」

 最近は地方巡業を断っていた渕が、久しぶりに遠征した。場所は新潟県三条市。ジャイアント馬場の故郷である。
 地方のファンに対して、久々に顔を見せた渕は躍動した。66歳の渕が、若いレスラーをボディスラムで投げつける。さらに、場外乱闘やドロップキックまで披露した。老いてますます盛ん、三条のファンは割れんばかりの「フッチ、チャチャチャ!」コールを贈る。

 この歳になって、なぜ未だにリングへ上がり続けるのか? この問いに、渕はこう答えた。
「ファンの声援に甘えている部分があるんだけど、(相手に)やられてリングに大の字になった時、天井をまだまだ見ていたいなあ、辞めたらこういう景色は見れないんだろうなあ、と」

▼年齢を感じさせない、渕正信のドロップキック

 地味なプロレスラーというイメージだった渕正信。そんな渕が全日本プロレスに入門した時、66歳になって自分のドキュメンタリー番組が制作されるとは、夢にも思ってなかっただろう。


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