[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第66回 放漫経営で自滅した日プロの悪い体質を受け継いだ旧・新日プロ

[週刊ファイト3月12日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第66回
 放漫経営で自滅した日プロの悪い体質を受け継いだ旧・新日プロ
・悪い体質は基本的に変えられず、05年に身売りを余儀なくされている
・大入り袋、お車代をマスコミに配っていたのは有名な話
・坂口征二氏が会社を仕切るようになってからはかなり変わった
・1番景気の良い時期に“ザル経営”をやっていた



アントニオ猪木と新間寿氏

 力士上がりの力道山、豊登、芳の里が社長を務めた日本プロレスは放漫経営によって自滅していった。アントニオ猪木が1972年に設立した新日本プロレスは日プロの過ちを教訓にしたはずだが、悪い体質は基本的に変えられず、05年に身売りを余儀なくされている。この旧・新日プロには「プロレス大不況」にも耐えられるだけの体力を付けるチャンスが何回かあった。その点が悔やまれる。

 16年9月に東京・新宿区にある喫茶店で新間寿氏をインタビューしたとき、彼は私が聞いていない山本小鉄氏の話をし始めた。話というよりも悪口である。

「新日本プロレスにテレビ(NETテレビ=現テレビ朝日)が付いて会社の金回りがようやく良くなり始めた頃、取締役の山本小鉄の経費精算から使途不明金がいっぱい出てきたんだよ。一応、プロモーター接待費とか名目だけは付けているんだけど、領収書が1枚もない。それで(社長の)猪木さんが小鉄を呼び出して問いただしたことがあったよ」

100829YamahaB9817.jpg 星野勘太郎と山本小鉄

 私は内心、自分のやっていたことを棚に上げてよく言うよ! と思った。新間氏にも領収書なしの経費精算が多々あったことを知っているからだ。ただ、単にズサンだっただけで彼が営業部の部下のみならず、新日プロに関わっているいろんな人に金品をバラまいていたことも見聞きしている。

 81~82年頃、蔵前国技館大会だけでなく後楽園ホール大会が満員になったときや記者会見でも5000円入りの大入り袋、お車代をマスコミに配っていたのは有名な話。この常識外れの金額を決めたのも新間氏だが、会場で大入り袋を渡していたフロントのA氏やB氏もクセ者。顔見知りの記者やカメラマンだけに配り、残った大入り袋は自分の懐に入れていたというのだ。

現在も元気な新間寿氏

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