[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第64回 もうイランへは帰れない・・・I・シークは目に涙を浮かべながらそう言った

[週刊ファイト2月13日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第64回
 もうイランへは帰れない・・・I・シークは目に涙を浮かべながらそう言った
・レストランで聞かされた苦労話は私の脳裏に焼き付いている
・彼にプロレス入りを勧めたのはAWAの総帥バーン・ガニア
・彼の口から意外な言葉が返ってきた
・彼の気前の良さよりも誠実さを感じ取った



 1980年代前半にWWFマットでヒール人気を博したアイアン・シーク(本名コシロ・バジリ)のドキュメンタリー映画が初回の昨年10月15日に続き、今月19日、東京・シネマート新宿で上映される。日本マットではブレークしなかったI・シークだが、私にとって思い出深い外国人レスラーの1人。とりわけ、カナダ・トロントのレストランで聞かされた苦労話は私の脳裏に焼き付いている。

 ザ・モンゴル、エル・モンゴル、モンゴリアン・ストンパー、ジート・モンゴル、ボロ・モンゴル、ベポ・モンゴル、キラー・カーン・・・古いアメプロ・ファンならこの中に本物のモンゴル人が1人もいないことをご存じと思うが、ギミックとは言え、白人のジート(ブラックジャック・ダニエル)やボロ(ビル・イーディ=M・スーパースター)、ベポ(ニコライ・ボルコフ)までモンゴル人に仕立て上げた米マットのプロモーター達はかなりいい加減だ。

 もっと暴露すれば、インディアンギミックのビリー・ホワイト・ウルフ(64年の『第6回ワールド・リーグ戦』に参加)はイラン人、チーフ・ジェイ・ストロンボーはイタリア系米国人のジョー・スカルパだった。

 その点、アイアン・シーク(コシロ・バジリ)は正真正銘のイラン人。生まれも育ちもイラン・テヘランで、1970年に米国に亡命したという経歴は事実である。

 彼にプロレス入りを勧めたのはAWAの総帥バーン・ガニア。

 積極的にアマチュア・アスリートのスカウト活動を行っていたガニアは、72年西ドイツ・ミュンヘン五輪を視察。同大会終了直後にクリス・テイラー(アマレス)と重量挙げ銅メダリストのケン・パテラを口説き落としているが、もう1人、ミュンヘンで関心を示したのがアマレス米国代表選手の臨時コーチを務めたコシロ・バジリだった。

 彼はアイアン・シークとして新日プロに初参戦した80年、当時の心境を振り返って私にこう語っている。

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’19年10月24日号RIZIN台風ONE 新日両国 水曜戦争3AEW里歩 スターダム 映画Iシーク

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