[週刊ファイト12月26日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼暮れはプロレス界の火薬庫!? 年末に起きた数々の大事件
by 安威川敏樹
・暮れになると、なぜかプロレス界には大事件が起きる
・1963年(昭和38年)、力道山が死亡
・1971年(昭和46年)、アントニオ猪木が日本プロレスを除名
・1981年(昭和56年)、ハンセンが全日本プロレスに突如乱入
・1985年(昭和60年)、ブロディ&スヌーカが決勝戦をボイコット
・1987年(昭和62年)、たけしプロレス軍団を発端とした両国暴動
・1990年(平成2年)、人気絶頂の第二次UWFが空中分解
令和元年となった今年も、あと少しで終わろうとしている。師匠も慌ただしく走り回る師走、読者の皆様も忙しい日々を送っていることだろう。
どうやらプロレス界もそうらしい。暮れになると心が落ち着かないせいか、プロレス界では大事件が起きるのだ。特に昭和の頃はそうだった。
それでは、年末にプロレス界で起きた数々の大事件を追ってみよう。
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1963年(昭和38年)、力道山が死亡
日本のプロレス界で起きた最初の大事件は、やはり力道山が死亡したことだろう。
日本プロレスを設立し、日本にプロレスを広めた、まさしく『日本プロレス界の父』力道山。そんな不死身の力道山が倒れたのは、1963年(昭和38年)12月のことである。
12月8日、東京・赤坂にある高級ナイトクラブ『ニュー・ラテンクォーター』で酒を呑んでいた力道山は、トイレに立ったときに大日本興行の組員だった村田勝志(当時24歳)と些細なことから喧嘩となった。もちろん、力道山が圧倒的に優勢。力道山に殴られ、吹っ飛ばされて馬乗りにされて、殺されると思った村田は、忍ばせていた登山ナイフを咄嗟に取り出し、力道山の腹部を刺した。
山王病院に運ばれた力道山は手術を受ける。手術は成功、力道山はたちまち元気になり、順調に回復すると思われた。
ところが、入院して5日ぐらい経ってから容態は悪化、刺されてからちょうど1週間後の12月15日に2度目の手術が行われたが、結局はそのまま帰らぬ人となったのである。
享年39歳。一代でプロレス王の地位を築いた屈強な男の、あまりにもあっけない死だった。
力道山の死により、日本プロレス界の運命は大きく変わったと言えるだろう。もし力道山が生き続けていたら、現在のプロレス界はどうなっていたのか、想像もつかない。
▼39歳の若さでこの世を去った力道山
1971年(昭和46年)、アントニオ猪木が日本プロレスを除名
力道山の死後、短かった豊登道春の時代を経て、日本プロレスのWエースとなったのがジャイアント馬場とアントニオ猪木だった。ライバル団体として国際プロレスがあったが、興行成績では日プロが圧倒していたのである。これも馬場と猪木という二大スターのおかげだった。
日プロの試合を、日本テレビとNET(現:テレビ朝日)の2局が定期放送するという、今から考えれば夢のような時代だったのである。
しかし、儲かり過ぎた日プロは放漫経営が目立ってきた。さらに、幹部連中(漫画『プロレススーパースター列伝(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)』で言うところの『ダラけた幹部=ダラ幹』)が会社の金をくすね、遊興費に充てていたのだ。
そこで猪木と馬場が相談し、幹部連中の不正をやめさせるように働きかけたが、選手の足並みが揃わず計画が幹部連中に漏れてしまった。1971年(昭和46年)のことである。
そして猪木がクーデターの首謀者とされたため、12月13日をもって日プロを永久に除名された。この際、馬場も『猪木との謀議の疑いあり』ということで選手会長を事実上の解任となっている。
翌1972年3月、猪木は新日本プロレスを旗揚げした。さらに馬場も日プロから独立し、同年10月に全日本プロレスを設立。馬場、猪木という二大エースを失った日本プロレスは翌1973年4月に崩壊、これにより国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの3団体時代となったのである。それと同時に、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の本格的な対立が始まった。
▼アントニオ猪木は女優の倍賞美津子と結婚した直後、日本プロレスを除名された
1981年(昭和56年)、ハンセンが全日本プロレスに突如乱入
3団体時代になって以来、ジャイアント馬場の全日本プロレスとアントニオ猪木の新日本プロレスとの興行戦争は激化の一途を辿った。そのピークを迎えたのが1981年(昭和56年)である。
旗揚げ当初はテレビなし、有名外国人なしで苦しいスタートだった新日も、異種格闘技路線や新たな外国人発掘により全日を逆転、1981年当時はかなり差がついてきた。ゴールデン・タイムで高視聴率をマークし続ける新日に対し、全日のテレビ中継は2年前にゴールデンから撤退。国際プロレスに至っては、この年の3月に全国ネット網を持たない東京12チャンネル(現:テレビ東京)に定期放送を打ち切られている。
4月には新日マットに初代タイガーマスク(佐山聡)がデビューし人気爆発、『今はプロレス・ブームではなく新日本プロレス・ブームだ』とさえ言われた。
勢いに乗る新日は5月、全日の看板悪役外国人だったアブドーラ・ザ・ブッチャーの引き抜きに成功、これで全日の息の根が止まったと予想されたのである。全日は、新日の看板悪役だったタイガー・ジェット・シンを抜き返したが、焼け石に水と思われた。なお、国プロは全日と新日との板挟みになって、同年8月にひっそりと崩壊している。
ブッチャーを引き抜かれて、瀕死の状態だったはずの全日だが、馬場の新日あるいは猪木に対する対抗心は全く衰えず、むしろ燃え上がった。馬場にとって本当のターゲットはシンではなく、新日の人気№1外国人にのし上がっていたスタン・ハンセンである。馬場は、ハンセンの師匠格であるテリー・ファンクを仲介役として、極秘でハンセンと接触した。
そして、ハンセンが新日と契約が切れる12月を待って、全日マットに上げようと企てたのである。
12月10日、新日のMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)タッグ・リーグ戦に参加していたハンセンは、全日程を終えた。しかし、アメリカへ帰国せずそのまま日本に滞在したのだ。
そして、いよいよ運命の日を迎えることになる。
12月13日の東京・蔵前国技館。世界最強タッグ決定リーグ戦の最終日、メイン・エベントのザ・ファンクスvs.ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカの試合で、ブロディ&スヌーカのセコンドとして突如スタン・ハンセンが姿を現したのだ。
蔵前国技館の大観衆は騒然となった。3日前まで新日マットに上がっていたレスラーが、ライバル団体の全日マットに登場するなど前代未聞だったからだ。
しかも試合中、ハンセンはテリー・ファンクにウエスタン・ラリアットを浴びせ、テリーはKO。1人になったドリー・ファンクJr.はブロディのキングコング・ニードロップの餌食となってフォール負け。ハンセンの助けによりブロディ&スヌーカが優勝した。
試合後、ジャイアント馬場とジャンボ鶴田が乱入、スタン・ハンセンと大乱闘になった。馬場はファンに「ハンセンと決着をつける!」とアピールし、ハンセンの全日への電撃移籍が発表された。馬場にしてやられた新日側は休戦を申し入れ、引き抜き防止協定が結ばれたのである。
▼新日本プロレスから全日本プロレスに電撃移籍したスタン・ハンセン
1985年(昭和60年)、ブロディ&スヌーカが決勝戦をボイコット
スタン・ハンセンが全日本プロレスへ移籍したことにより、ブルーザー・ブロディとの『史上最強タッグ・チーム』超獣コンビが結成された。その反面、それまでタッグを組んでいたブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカが仲間割れ。さらに、ブロディは新日本プロレスへ移籍、その後を追うようにスヌーカも新日マットに上がるようになったのである。
仲間割れした両者だったが、1985年(昭和60年)のIWGPタッグ・リーグ戦では再びコンビを組み、新日マットを席巻した。リーグ戦でも順調に勝ち星を伸ばし、決勝進出を決めたのだ。
12月12日の朝、新日本プロレスの外国人レスラーたちは決戦の地・仙台の宮城県スポーツセンターへ向かうため、上野駅に集合していた(当時の東北新幹線は上野が始発駅)。
ところが出発前、新幹線の車中でブロディと、レフェリー兼外人係のミスター高橋がアングル面で揉め、ブロディが突然「Fuck you!」と罵り、スヌーカを連れて新幹線から出て行った。困ったミスター高橋はアントニオ猪木に「後を追いますか?」と相談したが、猪木は「ほっとけ」と返す。ブロディの我儘さに手を焼いていた猪木は、厄介払いができたと思ったのだろうか。
新幹線『やまびこ』は無情にも、ブロディとスヌーカを上野駅のホームに残したまま、仙台へ向けて走り始めた。
実はこの日、東京の日本武道館では全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦が行われる予定だった。しかもメイン・エベントには、ブロディの盟友であるスタン・ハンセンがテッド・デビアスと組んで出場する。ひょっとすると、ブロディは全日会場の武道館に乗り込むのではないか? とマスコミは色めき立った。4年前の、ハンセン乱入事件の再来である。