引退の少ないプロレス界、中堅・若手レスラーはどう生き残る?

 10月17日(木)、プロ野球ドラフト会議が行われた。注目された佐々木朗希投手(大船渡高)や奥川恭伸投手(星稜高)はドラフト1位指名されて、プロでの活躍に胸を躍らせているだろう。
 そして10月19日(土)から日本シリーズが始まる。プロ野球もいよいよ大詰めだ。

 しかし、華やかな舞台とは裏腹に、この時期になると流れてくるのは退団のニュースだ。読売ジャイアンツの阿部慎之助捕手のように惜しまれつつ引退する選手もいれば、阪神タイガースの鳥谷敬内野手のように球団から引退を促されながら他球団での現役続行を希望する選手もいる。
 それ以上に寂しくなるのは、いわゆる『戦力外通告』だろう。もう、その球団にはいられなくなり、他球団からも要らないと言われれば引退するしかない。そんな選手たちも、数年前はドラフト指名されて、希望に満ち溢れてプロの門を叩いた者ばかりなのだ。プロだけあって、実に厳しい世界なのである。

 今年のドラフトに指名された有望選手たちも、5年後には多くが球界を去っているだろう。10年後には、一部の有力選手を除いて、ほとんどが引退しているに違いない。

▼2008年度ドラフト組の阪神の新人練習。11年後の現在、プロに残っているのは7人中ただ1人


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▼[ファイトクラブ]プロレス界のドラフト会議!? プロレスラーになるためには

[ファイトクラブ]プロレス界のドラフト会議!? プロレスラーになるためには

元々は引退する選手が少なかったプロレス界

 プロレス界は引退の少ない世界と言われる。ジャイアント馬場は『生涯現役』だったし、その他のレスラーも50歳代や60歳代まで現役なのは当たり前、『40歳代は鼻たれ小僧』とも言える業界である(ちょっと言い過ぎだけど)。
 それでも、平成の世になって他団体時代を迎え、さらに21世紀に入ると冬の時代となったプロレス界は、メジャー団体でもリストラが普通に行われるようになった。プロ野球ふうに言うと『戦力外通告』である。リストラされたレスラーは、そのまま引退する者、インディーなど他団体に移籍する者、自分で新団体を興す者、様々だ。

 いわゆる昭和のプロレス黄金時代、こうした形の引退は少なかった。プロレスを辞める一番の理由は『練習が厳しいから』あるいは『イジメを受けたから』。多くの新人レスラーは入門初日に脱走し、その他の者も相次ぐ脱走、デビューできるのはほんの一握りと言われた。
 デビューできたレスラーでも、前座から抜け出せない者は引退。プロ野球で言えば、二軍暮らしがずっと続いて一軍に這い上がれないような選手だろう。

 しかし、当時のプロレス界ではある程度の地位まで行くと、なかなか引退するレスラーはいなかった。特に新日本プロレスではそうだ。同門の日本人対決が多かった新日では、人余り現象があまり起きなかったのである。
 ところが、日本人vs.外国人が主流だった全日本プロレスでは、総帥のジャイアント馬場による人員整理が容赦なく行われた。借金問題で解雇した阿修羅・原は別としても、21世紀の『プロレス氷河期』ほどではないとはいえ、人余り現象が起きるとレスラーにひっそりと『戦力外通告』していたのである。しかし、メインを張るトップ・レスラーは安泰だった。

 上のレスラーが引退しないのだから、若手はもちろん中堅レスラーにもしわ寄せがくる。そうなると、なかなか新陳代謝が起こらない。団体としてもそうだが、レスラーにとっても良い状況ではないのだ。
 プロ野球と違ってFA移籍はもちろんトレードもない。他団体に引き抜かれない限り、所属する団体でくすぶる以外にないのである。

▼多くの所属レスラーに引導を渡したジャイアント馬場

余剰人員は冷遇された、昭和の全日本プロレス

 ジャイアント馬場による『戦力外通告』が行われる原因となったのは1984年、全日本プロレスに合流した長州力率いるジャパンプロレスの存在だろう。新日本プロレスを潰すための長州一派の迎え入れと言われ、全日軍vs.ジャパン軍は目玉カードとなった。
 馬場の思惑通り、それまで劣勢だった全日はジャパン参戦により逆転し、新日を凌駕した。豊富な選手層を誇った新日もジャパンプロレスと、前田日明を擁するUWFの離脱によってレスラー不足に陥り、一気に窮地へと追い込まれたのである。

 その反面、全日では日本人選手の飽和状態が起きてしまった。そこで、馬場が人員整理を行ったのである。
 整理の対象となったのは剛竜馬、アポロ菅原、高杉正彦(ウルトラセブン)といった国際プロレス出身者たち。彼らはラッシャー木村と共に『国際血盟軍』のメンバーとなったのだが、アッサリ解雇されてしまった。

 さらに『戦力外通告』というわけではないが、長州力とも真っ向勝負していた石川敬士(現:孝志)が長州らの全日離脱後に引退。石川の後を追うように、日本大学および大相撲の花籠部屋では先輩だった輪島大士も引退。鳴り物入りで横綱からプロレスラーになった割には、輪島はあっけなくプロレス界を去った。
 ジャパン勢がいなくなって、選手層は薄くなったのに、主力だった2人を欠いても大して話題にはならなかったのである。馬場にとって、石川や輪島はもう『要らない子』だったのだろうか。

 しかし菅原と石川は、全日本プロレスから大勢のレスラーを引き抜いたSWSに入団。SWS崩壊後は、菅原と石川、さらに剛と高杉も、全日にとって天敵の新日マットにも上がった。SWSと新日と言えば、馬場からすれば憎んでも憎み切れない団体である。特に石川などは、新日の東京ドーム大会では藤波辰爾とセミ・ファイナルで好勝負を演じ、さらにその後はタッグ・マッチとはいえ藤波からピンフォールを奪った。
 これは馬場の自業自得と言えなくもない。全日経験者のレスラーがライバル団体で活躍したのは、天龍源一郎は別にして、馬場が上の方のレスラーしか見ていなかった証拠でもあるからだ。

▼国際プロレス→新日本プロレス→UWF→全日本プロレスと昭和4団体を渡り歩いた剛竜馬
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前座時代に引き抜かれて大成功した珍しいケース

 顕著な例が、越中詩郎のケースだろう。若手時代、越中と三沢光晴の試合は『全日本プロレス前座の黄金カード』と呼ばれ、その後は前座レスラーから脱却すべく2人でメキシコ遠征。ところが、三沢にのみ帰国命令が出て、三沢は二代目タイガーマスクとなった。
 1人メキシコに取り残された越中。しかもジャパン勢が全日にやって来たため、帰国しても自分の居場所がないのは目に見えている。
 そんなとき、坂口征二からの誘いがあって、越中は新日に移籍した。その後の越中の、新日での活躍はご存じの通りである。

 馬場は「また新日が引き抜きやがった!」とご立腹だったが、主力選手の引き抜きとはわけが違うだろう。前座に過ぎなかった越中がそのまま全日に戻っても、馬場が越中を優遇したとは思えない。仮に上で使ってもらえても、後輩の三沢(タイガーマスク)の引き立て役をやらされていた可能性がある。過去の馬場のやり方を見て、実績のない若手レスラーが不安に思うのは当然のことだ。

 全日育ちの越中が新日で活躍できたのは、本人の努力と、新日マットに水が合ったからだろう。移籍当初の越中は、全日とは勝手の違う新日マットに戸惑っていたが、たちまち同化して人気レスラーとなった。『全日本』と聞くだけで拒否反応を示した当時の新日ファンが、越中に声援を贈るようになったのである。あのまま全日に残っていれば、とっくに引退していた可能性が高い。
 馬場がレスラーを育てるのが下手だとは言わないが、下のレスラーの気持ちが判らなかったのは間違いないだろう。馬場は日本プロレスに入門した頃から、当時としては異例のアパート通いで、給料まで出ていたのだ。力道山時代の日プロでは、新弟子は先輩レスラーの付き人となり、合宿所住まいで、給料など出ないのが当たり前だったのである。

 プロ野球でも二軍でくすぶっていた選手が、トレードされると他球団でウソのように大活躍することがある。球団カラーが、その選手に合っていたわけだ。
 プロ野球時代の馬場は巨人軍をクビ、その後はテスト生として大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)のキャンプに参加したものの、風呂場で転倒して大怪我したために、プロ野球は引退せざるを得なかった。
 プロレス界では、団体カラーはプロ野球よりもハッキリと色分けされる。ひょっとすると、今は前座でも他団体に移籍すると大化けするレスラーがまだまだいるかも知れない。

 かつてのプロレス界は閉鎖的で、団体間の交流が今よりも遥かに少なかった。ジャイアント馬場とアントニオ猪木との確執が原因である。今から考えると、お互いの団体間で選手のトレードがあれば、もっと活躍できたレスラーも大勢いただろう。
 もっとも、全日と新日の対立構造から来る緊張感が、昭和プロレスの面白さだったのも事実なのだが。

▼全日本プロレスで育ち、新日本プロレスで大ブレイクした越中詩郎


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