快足かつ巨漢のロックからプロレスラーへの転身! グレート草津

 9月6日(金)、埼玉・熊谷ラグビー場で行われたラグビーのテストマッチ、日本vs.南アフリカ(スプリングボクス)は7-41でジャパンは完敗を喫した。4年前のワールドカップでは、ジャパンが大番狂わせを演じた相手だったが、見事な返り討ちに遭ったわけだ。
 しかし、9月20日(金)に開幕するW杯に向けて、課題が見つかったのはジャパンにとって良かったかも知れない。幸い、怪我で途中退場したトライ・ゲッターのWTB福岡堅樹(パナソニック)や、パワー抜群の№8アマナキ・レレイ・マフィ(NTTコム)は軽傷で済んだようだ。

 さて、前回の筆者はラグビー出身のプロレスラーとして阿修羅・原を紹介したが、今回は阿修羅・原にとって国際プロレスの先輩であるグレート草津を取り上げよう。

▼阿修羅・原がラガーマンとして光り輝いていた頃

阿修羅・原がラガーマンとして光り輝いていた頃


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▼[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第28回 国際プロの命運を決めたG・草津の歴史的敗北

[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第28回 国際プロの命運を決めたG・草津の歴史的敗北

無敵の八幡製鐵でグレート草津は大活躍

 日本ラグビー史上最強のチームはどこか? という問いに対して、多くの人は日本選手権7連覇を果たした新日鉄釜石(現:釜石シーウェイブス)や神戸製鋼(現:神戸製鋼コベルコスティーラーズ)を挙げるだろう。最近のファンならサントリー サンゴリアスやパナソニック ワイルドナイツの名を出すかも知れない。
 しかし、その時代に圧倒的な強さを発揮したという意味では、オールド・ファンなら昭和30年代に無敵を誇った八幡製鐵(現:日本製鉄八幡製鉄所)と答えるだろう。『日本史上最強』八幡製鐵の一員だったのがグレート草津、本名は草津正武だった。

 戦時中の1942年2月13日、熊本市に生まれた草津は、敗戦国となった日本で多感な少年時代を過ごした。草津少年にとって、憧れだったのは日本が敵わなかった敵国アメリカ文化。戦後になってアメリカの映画がどっと輸入されて、草津少年はスクリーンに夢中になる。
 映画館のニュース映画で、草津少年が見入ったのはアメリカン・フットボールだった。大男たちが楕円球を持って突進する、そんな姿に憑りつかれたのである。

 熊本工業高校に進学した草津だったが、当時の日本の高校にアメフト部など滅多にない。草津が選んだのは、同じ楕円球を使うラグビー部だった。
 体の大きい草津はたちまちレギュラーとなり、全国大会にも3度出場を果たすことになる。

 高校を卒業した草津は1960年、同じ九州の八幡製鐵に入社。当然、ラグビー部に入部したが、当時最強を誇った八幡製鐵でさえ、高卒1年目から草津はレギュラーとなる。八幡製鐵はカナダ遠征し、現地の強豪クラブに4勝2敗で勝ち越すほど、八幡製鐵は強かった。
 もちろん、全国社会人大会(当時はトップリーグがなかった)とNHK杯(日本選手権の前身)にも優勝。高卒1年目で弱冠18歳の草津は、いきなりベスト15に選ばれた。

 草津のポジションはフォワード(FW)のロック(LO)。最も大柄な選手が務めるポジションだが、ポジションの説明は阿修羅・原編を参照されたい。
 当時の草津の体格は189cm、93kgで、日本人として突出しているばかりか、LOとしてもワールド・クラスの大きさだった。しかも、これだけ大柄なのにウィング(WTB)並みの100m11秒2。現在だったらLOではなくWTBにコンバートされて、巨漢WTBとして世界から注目を集めただろう。

 草津の日本代表キャップは僅かに1つ。しかし、これは当時の日本代表はテストマッチが極端に少なかったからで(キャップやテストマッチの説明については阿修羅・原編参照)、現在だったら楽に20キャップぐらいは稼いでいたに違いない。
 当時の日本代表には、八幡製鐵から半分ぐらい選ばれていた。その頃は代表チームと言っても寄せ集めみたいなものだったので、チームプレーが成熟した八幡製鐵の方が日本代表よりも強かったのではないか。1962年には八幡製鐵はラグビー強国のオーストラリア・ニュージーランド遠征を行い、6勝4敗の勝ち越し。草津はオーストラリア協会からベスト・プレーヤーに選出された。

 しかし、当時のラグビー界はプロ選手が認められてなかった時代。ラグビーを引退すると、高卒の草津は出世コースから外れる。さらに海外でプレーしたいと思っても、日本協会からストップがかかっていた。
 そして、草津は海外遠征の多いプロレスラーへの転身を決意する。草津の退社と時を同じくして、八幡製鐵ラグビー部も弱体化していった。

ルー・テーズのバックドロップで掴み損ねたエースの座

 1965年夏、力道山は既にこの世の人ではなかったが、草津は日本プロレスに入門する。そして、次期エースだったジャイアント馬場の付き人となった。ところが、草津がプロレスラーになった途端、日本のプロレス界は激動の時代を迎えることになる。
 翌年の1966年、日プロのエース兼社長だった豊登が日プロを退団、若手のホープだったアントニオ猪木を誘って東京プロレスを設立した。1967年1月には日プロの幹部だった吉原功が国際プロレスを設立、東プロを吸収合併することになる。結局、猪木は日プロに復帰した。

 日プロではイジメを受けていた草津は、国プロに参加する。国プロをTBSが全国ネットで放送することになり、そのエースとして草津が抜擢されたのである。
 草津は192cm、118kgという申し分のない体、ラガーマンとしての知名度もあって、新団体のニュー・エースとしてはうってつけだった。

 1968年1月3日、東京・日大講堂からの生放送でグレート草津はエースとして、『20世紀最強の鉄人』ルー・テーズが保持するTWWA世界ヘビー級王座に挑戦した。しかし、61分3本勝負だったにもかかわらず、1本目でテーズの必殺バックドロップを食らったグレート草津は失神KO。2本目以降は続行不可能となり、0-2で惨敗を喫した。新エースでは有り得ない結末である。
 この『グレート草津失神事件』がグレート草津にとっても、国際プロレスにとっても、致命傷となった。

 結局、グレート草津はエースになり損ね、国際プロレスは日本人エースが不在という事態に陥ることになる。外国人のビル・ロビンソンをエースとしたり、グレート草津とストロング小林、ラッシャー木村を合わせて『3K』などと呼ばれ、現在では当たり前の複数エース制を敷いたりしが、当時のプロレス界は日本人の絶対的エースが必要不可欠だった。国プロはあまりにも、時代を先取りし過ぎたのである。

 結局、ライバルの日本プロレスは潰れたものの、新興団体の新日本プロレスや全日本プロレスに、国際プロレスは後れをとることになった。そして、1981年に国際プロレスは寂しく崩壊する。
 その時、グレート草津もプロレスのリングに別れを告げた。

基本的なラグビーのルール

 前回の阿修羅・原編ではラグビーのポジションについて説明したが、今回は基本的なルールを見てみよう。

★グラウンドは長さ100m以内、幅70m以内、イン・ゴール22m以内
★試合時間は前後半40分、合計80分
★ボールを持って走ってもよい
★ボールを手でパスしてもいいが、前に投げてはダメ
★ボールを前にキックしてもいいが、前にいる味方選手はプレーできない
★ボールを持っている相手選手に対してタックルできる

 グラウンドは長さ100m以内、幅70m以内となっている。イン・ゴールは22m以内で、競技場によってまちまちだが、前回のワールドカップではその大会で使用される一番短い競技場に合わせて統一していた。

▼ラグビーのグラウンド

 前後半は40分ずつ、計80分で行われ、当然のことながら得点の多い方が勝ち。同点の場合は引き分けだが、ノックアウト式トーナメントでは、トライ数の多い方が勝ち進むことになったり、あるいは延長戦が行われる場合もある。
 ロス・タイムという言葉を聞いたことがあると思うが(サッカーで言うアディショナル・タイム)、ラグビーのワールドカップではタイム・キーパー制となっており、ロス・タイムは存在しない。つまり、怪我などでプレーが止まった場合、スコアボードやテレビの時計も止めてしまうのだ。したがって、時計が40分を超えたら試合終了である。
 ただし、プレーが続いていれば40分を超えても試合終了とはならず、試合続行だ。たとえプレーが止まっても、それが反則によるものだったら、試合は続けられる。これをよく、ロス・タイムと勘違いする人が多い。

 ところで、試合終了のことを『ノーサイド』と言うが、これはほぼ日本だけで生き残っているラグビー用語で、海外ではほとんど死語となっている。海外ではフルタイムと呼ぶのが一般的だ。
 今回のワールドカップ日本大会で『ノーサイド』という言葉が海外に逆輸入されるか?

 試合は前後半ともキック・オフで開始される。キック・オフはドロップ・キックで行われるが、プロレスの飛び蹴りとは関係ない。ボールを地面にワンバウンドさせてから蹴ることをドロップ・キックと言う。
 得点後のリスタート・キックも同じ方法で行われ、蹴るのは得点された側のチームだ。

▼ドロップ・キックで行われるキック・オフ

 ボールを持って走ってもよく、手でパスしてもいいが、前に投げてはいけない。キックは前に蹴ることができるが、前にいる味方選手は、そのボールに働きかけると反則だ。
 守備側はボールを持っている相手にタックルできるが、ボールを持っていない相手にはタックルできない。たとえ相手がボールを持っていても、首から上へのタックル、プロレスで言うラリアットはご法度だ。
 タックルは相手を捕まえる(バインドする)ことが必要で、プロレスのショルダー・タックルのような単なる体当たりは反則となる。

ラグビーの得点方法

 ラグビーの得点には、以下の種類がある。

★トライ=5点
★ペナルティ・トライ=7点
★コンバージョン・ゴール=2点
★ペナルティ・ゴール=3点
★ドロップ・ゴール=3点

 まずはトライから。ラグビーの花形とも言えるトライは5点が入る。なお、グレート草津がラガーマンだった頃のトライは3点だった。それから4点になり、現在では5点と、トライの価値が上がっている。
 トライは敵陣のイン・ゴールにボールをグラウンディング(地面に着けること)しなければならない。ゴール・ラインを越えれば得点になるアメフトとは対照的だ。
 なお、相手の反則がなければトライになったであろうとレフリーが判断した場合は、ペナルティ・トライ(認定トライ)となって7点が与えられる。

▼ラグビーの花形、トライ。ボールをグラウンディングする必要がある

 トライが決まった後は、コンバージョン・ゴールでさらに得点を加えるチャンスがある。トライを決めた延長線上からボールを蹴り、H型のゴール・ポストの間をくぐれば成功で、2点が追加される。つまり、トライすれば最大7点を奪うことができるわけだ。
 ラグビーでは、この7点が基準となり、例えば14点差なら『2トライ2ゴールで同点』という言い方をする。したがって、7点差と8点差、14点差と15点差では、たった1点の違いでも雲泥の差となるのだ
 普通、コンバージョン・ゴールはプレース・キック(地面にボールを立てて蹴ること)で行うが、ドロップ・キックでも構わない。
 なおペナルティ・トライの場合は、コンバージョン・ゴールは行わず、それのみで7点となる。

▼プレース・キックで行われるコンバージョン・ゴール

 相手に大きな反則があった場合はペナルティ・キックの権利が与えられるが、直接ゴールを狙うこともでき、それをペナルティ・ゴール(PG)と言って成功すれば3点となる。
 方法はコンバージョン・ゴールとほぼ同じで、プレース・キックで行うのが普通だが、その場合はレフリーにその意思を示さなければならない(これをショットという)。
 なお、レフリーに意思を示さなくても、ドロップ・キックによりゴールを狙うこともできる。

 インプレー中に直接ゴールを狙うのがドロップ・ゴール(DG)だ。ドロップ・キックによりH型のゴール・ポストに蹴り込むと、ドロップ・ゴールが成立で3点入る。
 2点差以内で負けているときや、なかなかトライを奪えないときに用いられる戦法で、特に海外では常套手段だ。しかし、草ラグビーでドロップ・ゴールをやると、顰蹙を買うんだとか。

ワールドカップ物語(第3回~第5回)

【第3回ワールドカップ】1995年:開催国=南アフリカ
 この大会は、アパルトヘイトを廃止した南アフリカ(スプリングボクス)が初出場、開催国も南アフリカだった。当時、ニュージーランド(オールブラックス)にテストマッチで唯一勝ち越していたのがスプリングボクスだったため『幻の世界最強国』と呼ばれていたのだ。
 この大会のスターとなったのは、オールブラックスの怪物WTBジョナ・ロムー。ロムーはWTBとは思えない体重118kgの巨体で相手タックラーを吹っ飛ばし、トライを量産した。
 決勝は地元スプリングボクスとオールブラックスの対戦。スプリングボクスはロムーを徹底マーク、延長戦の末オールブラックスを破り、世界の舞台に返り咲いたこの大会で初の世界一となった。このサクセス・ストーリーは映画『インビクタス』で描かれている。
 ちなみに、ロムーは40歳で亡くなり、スプリングボクス唯一の黒人選手でアパルトヘイト撤廃の象徴だったWTBチェスター・ウィリアムズが、奇しくも日本vs.南アフリカが行われた先日、49歳で亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。
 この大会から地域予選の地区割りが変わり、日本はアジア代表として出場した。しかしウェールズとアイルランドに連敗、オールブラックスには17-145という記録的大敗を喫した。
 この大会終了後、ラグビー界では遂にプロ化が容認された。しかし日本ラグビー界はプロ化に立ち遅れ、オールブラックス戦の大敗も相まって、暗黒時代を迎えることになる。

【第4回ワールドカップ】1999年:開催国=ウェールズ他
 プロ化が容認されてから初めてのW杯、出場国もそれまでの16ヵ国から20ヵ国に拡大された。
 優勝候補と目されたのはニュージーランド(オールブラックス)だったが、準決勝でフランスに足元をすくわれて敗退。決勝はフランスと、オーストラリア(ワラビーズ)との対戦となった。
 強固なディフェンス力を誇るワラビーズはフランスの『シャンパン・ラグビー』を封じ込め、2度目の栄冠に輝く。これにより4大会連続で、南半球がW杯を制したのである。
 日本は平尾誠二を監督に据えて期待されたが、サモア、ウェールズ、アルゼンチンに3連敗。またしても0勝3敗と結果を出せなかった。

【第5回ワールドカップ】2003年:開催国=オーストラリア
 前回大会と同じ20ヵ国の出場となったが、4ヵ国ずつ5組に分けた前回と異なり、5ヵ国ずつ4組に分ける方式に変更される。以降の大会でも、このシステムが採用された。
 この大会でも優勝候補だったニュージーランド(オールブラックス)は、準決勝で地元オーストラリア(ワラビーズ)に敗れる。決勝はワラビーズと、オーストラリアにとって宗主国でありラグビーの母国でもあるイングランドとの対戦となった。
 ワラビーズ有利の前評判の中、イングランドも意地を見せて同点のまま延長戦に入り、残り27秒でイングランドのSOジョニー・ウィルキンソンが決勝のドロップ・ゴールを決めた。
 ラグビーの母国イングランドは初の世界一、そして北半球に初めてエリス・カップ(優勝杯)が渡ったのである。
 今大会から予選プールで4試合戦うこととなり、日本は不利な日程に泣かされた。初戦は強豪スコットランドに善戦するも11-32で敗れ、以降はフランス、フィジー、アメリカに敗れて0勝4敗。日程が緩やかなティア1(強豪国クラス)に対し、日本は中3日や中4日の強行日程となったのである。

▼試合中は乱闘になっても……

▼試合後は敵味方がなくなる『ノーサイドの精神』


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