覆面の魔王 ザ・デストロイヤーを偲んで

 昭和44年3月5日、東京都体育館で行われたジャイアント馬場対ザ・デストロイヤーのインターナショナル選手権試合を熱中してTVの画面にくらいついた。
 デストロイヤーの凶器入り頭突きを浴びたG馬場は額を割り大流血。壮絶な死闘の末、G馬場が回転エビ固めで1本を先取、そのまま四の字固めの攻防から時間切れ引き分けとなった。両者納得がいかず、揉めあう中セコンドのネルソン・ロイヤルやポール・ジョーンズがリングに乱入。
 それを阻止するかのようにアントニオ猪木がG馬場を助ける姿に当時の私は熱狂した。そしてこれがきっかけでプロレスにのめり込んでいった。
 翌日の学校では男子クラスメイト全員が四の字固めの攻防で、着ていた服が砂まみれになったことを昨日のように思い出す。

 それほど凄いプロレス人気、デストロイヤー人気の絶頂期であった。日本プロレスの頃のデストロイヤーはまさに覆面の魔王そのもの。かつて力道山と壮絶なファイトをしたことは、当時のバイブルであったプロレス&ボクシングやゴングでその歴史を学んでいた私達はより彼の魅力にハマっていった。

 人気を象徴するかの如く、当時外人のエース級が日本のシリーズに参加するのは早くて1年以降との決まりのようなものがあったが、同年秋にダイヤモンド・シリーズに再度、覆面トリオ(ザ・デストロイヤー、ミスター・アトミック、ペン・ジャステイス)で来日した。G馬場、アントニオ猪木とリング上で凄まじい闘いを展開したのである。

 当時の日本プロレス営業関係者は、「デストロイヤー・シリーズは絶対にはずれることはない。彼はプロレスビジネスに精通しており、来るたびにファンに飽きさせぬよう新しい魅力をふりまいてくれる」と言わしめた。

 そして昭和46年4月、桜の花の開花とともに1年7カ月ぶりに家族を連れて日本プロレスの第13回ワールド大リーグ戦に参加、決勝ではアントニオ猪木と対戦し四の字固めの攻防の末、両者リングアウトで引き分け。ブッチャーに勝ったG馬場が優勝したが、試合内容ではアントニオ猪木対デストロイヤー戦のほうが数段好勝負であった。

 円熟味を出し益々人気の上ったデストロイヤーはそのまま家族を引き連れ世界ツアーに出発する。残念ながら、その間に日本プロレスは崩壊した。そしてアントニオ猪木は新日本プロレスを、G馬場は全日本プロレスを設立したが、デストロイヤーはそれまでの友情関係のあったG馬場の全日本プロレスを日本側としてフォローしてゆく立場となる。

 それからは新日本プロレスの猪木とタイガー・ジェットシンの血の抗争に対抗して、彼は馬場の近衛兵としてAブッチャーとの抗争をスタートする。そして、ジャンボ鶴田の台頭によりNo.3の立場として全日本プロレスをヘルプ。最高の敵ミル・マスカラスとの抗争、覆面世界一決定シリーズの敢行・・・。
 その頃からやはり、少し体力の衰えも見え隠れし始めたように思えた。反面、TVバラエテイ出演からコミカルな部分でお茶の間の人気者となる。

 プロレス界において外人部門でこれほど知名度のあるレスラーは居なかった。
 先日、アブドーラ・ブッチャーが引退式の後、山口県光市まで出向きサイン会を行ったが、そこに集まったファンの多さに驚いたものだが、それに勝るとも劣らぬであろうデストロイヤーさんの人気であろう。
 やはりこれまで多くの外人レスラーの訃報において、各メデイアの取り上げ方を見ていても断トツに凄い。NHKも『ニュースウオッチ9』でトップニュースになる異例さだ。

 彼は日本と日本人をこよなく愛してくれていた。そして私達も彼を愛していた。東北の震災時も足をひきずりながらも支援してくださった。そして引退後も、水泳やレスリングにおいて日米の子供達の交流に寄与された。

 今年に入り、マサ斎藤さんの追善興行のヘルプをする中で、息子カート・ベイヤー氏にデストロイヤーさんのマサ斎藤さんへのビデオ・メッセージをお願いする中で、何度も何度も病院で試みてくださったが、かなり病状がきつく無理だという返事が戻ってきた時は少し彼の病状において不安になった事は事実である。
 病床で、もう日本には行けない体だと聞いた時、崩れ落ちるような表情になられたと聞いた時は本当に辛かった。2020年のオリンピックにはもう一度元気な姿が見られるものと楽しみにしていたのに・・・
 本当にこれまでも無理なお願いをしても、快く対応してくださった。そして誰に対しても分け隔て無く接してくださる姿勢は見習わなければならない。

 この4年から5年の間に素晴らしい現場に立ち会う事ができた。一つは、長年のライバルであったミル・マスカラスとの日本での再会である。
 デストロイヤーさんが2013年12月に来日されると聞き、マスカラスのマネージャーである大川さんと相談。長年の夢であった同窓会を後楽園飯店で行うことになる!
 お二人共に凄く喜ばれ、お酒をかわす姿は今でも忘れられません。

 デストロイヤーさんは、ミル・マスカラスさんはスパニッシュ語しか話せないとずっと思いこんでいたのですが、CAC(カリフラワー・アレイ・クラブ)で会ったりする都度、彼は英語がしゃべれる事が解り、より深く友人関係を構築されることとなる。晩年はお互いに体のことまで心配する間柄になっておられました。
 デストロイヤーさんはよく、マスカラスに自分が経営するパークゴルフへいざなっておられました。

週刊ファイト10月06日号新日TBSデストロイヤー井上譲二I編集長RIZIN中国MMA天心RISE

 そして、忘れもせぬ2016年9月22日、我らがアントニオ猪木さんとデイナーをいっしょにされる機会に! カート・ベイヤー、モナ・クリスさんといっしょに和気あいあいとした雰囲気のまま、あっという間に2時間という素晴らしい時間を過ごされました。

 デストロイヤーさんはアントニオ猪木さんをレスラーとして素晴らしい選手だったと称賛されていた。ただ、お二人で亡くなった同期の選手の名前を互いに伝える寂しい場面もありました。

 猪木さんは「日本からブラジルに行った経緯、そこでの過酷な労働、そして力道山との出会い。ホテルで上着を脱がされ、その肉体を見つめられた後、すぐ日本へ行く」とのくだりを丁寧にデストロイヤーさんに話しておられました。

 デストロイヤーさんも始めて聞くエピソードなので興味深く聞き入っていました。最期の会食になったが、今思えば本当に実現して良かったと感慨深くなります。
 心から御冥福をお祈りしますと共に感謝です。

文・藤井敏之


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追悼:ザ・デストロイヤー