[ファイトクラブ]黒い呪術でプロレスの楽しさを教えてくれたアブドーラ・ザ・ブッチャー

[週刊ファイト3月7日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼黒い呪術でプロレスの楽しさを教えてくれたアブドーラ・ザ・ブッチャー
 by 安威川敏樹
・ファンから愛されたヒール、アブドーラ・ザ・ブッチャー
・プロレス・オンチでも知っていた、ブッチャーの名前
・日本中が悲鳴を上げた、ブッチャーのフォーク攻撃
・ブッチャーの全日本から新日本への移籍、その裏にあったものは?
・『ブッチャーは新日本プロレスで冷遇された』は本当か?
・『噛ませ犬発言』を好演出


 本誌で何度もお伝えしている通り『プロレスの日』の2月19日、東京・両国国技館で『ジャイアント馬場没20年追善興行』が行われた。そして“黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーの引退セレモニーが行われたのも周知の通り。

 ブッチャーは引退するまで、ずっとヒールであり続けた。これほど悪役が似合うレスラーもあまりいないだろう。
 しかも、ブッチャーの特徴としては、ヒールでありながらファンに愛されたということだ。同じヒールでも、タイガー・ジェット・シンやザ・シークは、ファンから憎まれていた。もっともこれは、本人たちがファンから憎まれるように努力していたからだが。

 プロレス界に新たなヒール像を示したのが、ブッチャー最大の功績と言えるのではないか。特にそれは、日本のマットにちょうどフィットしていたのだろう。

▼[ファイトクラブ]山本ヤマモ雅俊のジャイアント馬場没20年追善興行「ヤマモ式」リポート

[ファイトクラブ]山本ヤマモ雅俊のジャイアント馬場没20年追善興行「ヤマモ式」リポート

プロレス・オンチでも知っていた、ブッチャーの名前

 筆者は小学生の頃、プロレスには全く興味がなかった。クラス・メイトのプロレスごっこにも参加せず、たまに無理やり参加させられると「なんでこんな痛い思いをしなきゃならないんだ」と憤っていたものだ。何しろこちとらプロレスを知らないんだから、技のかけようがない。当然、技をかけられる専門になるので、痛いのは当然である。
 今だったら、プロレスごっこはイジメの温床として禁止されているかも知れない。あるいは、プロレスごっこそのものを今の子供は知らないかも。

 そんなプロレス・オンチの筆者でも、プロレスラーの名前は3人だけ知っていた。ジャイアント馬場とアントニオ猪木、そしてアブドーラ・ザ・ブッチャーである。もっとも『アブドーラ』までは知らなかったが。
 これは、ほとんどのプロレス・オンチがそうではなかったか。つまり、ブッチャーは当時の外国人レスラーで、最も有名だったということである。
 当時の太っている子供は、まず例外なく『ブッチャー』というアダ名が付いていた。これはこれでイジメのようなものだが、そもそも『ブッチャー(butcher)』に『太っている』という意味はない。『屠殺人』という意味である。可愛く言えば『お肉屋さん』だ。
 しかし、アブドーラ・ザ・ブッチャーの体型と、音の響きから太っているイメージが付いた。

 筆者が初めて見たプロレスの試合は、ブッチャー絡みだったかどうかは憶えていないが、そのテレビ中継には間違いなくブッチャーは登場していた。1981年の日本テレビでの全日本プロレス中継、当時は土曜日の夕方5時半からの放送だった。このときはチャンピオン・カーニバルの真っ最中だったと記憶している。なぜプロレスを見ようと思ったのか、その理由は憶えていない。
 たしかブッチャーはジャンボ鶴田と闘っていた。鶴田に対して凶器攻撃するブッチャーを見て「プロレスって、凶器攻撃が許されるんだ」と思ったものだ。

 この頃は「なんでアントニオ猪木が出てないんだろう?」と不思議に思っていたが、プロレス好きの兄ちゃんから「金曜夜8時から6チャンネル(関西では朝日放送)で猪木やタイガーマスクが出てるで」と教えてくれた。ちょうど初代タイガーマスク(佐山聡)がデビューした頃で、このときにプロレスには複数の団体があることを知った(当時は国際プロレスを含めた3団体)。新日本プロレスを見て、全日本プロレスとの雰囲気の違いに驚いたのを憶えている。
 間もなく、ブッチャーは新日本プロレスに移籍した。

 筆者が初めて買ったプロレス関連の書物は、タブロイド紙時代の『週刊ファイト』ローラン・ボック特集号であることは以前にも書いたが、初めて買ったプロレス本はブッチャーの著書『プロレスを10倍楽しく見る方法(ワニブックス)』だったと思う。
 そして、漫画『プロレススーパースター列伝(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)』の単行本も買うようになったが、その第1巻が『地獄突きがいく! ザ・ブッチャー』編だった(連載されていた週刊少年サンデーの初回は『父の執念! ザ・ファンクス』編)。

 いずれにしても、筆者はアブドーラ・ザ・ブッチャーによってプロレスを知り、そしてプロレス・ファンになったのである。

▼筆者をプロレスの世界へ導いたのはアブドーラ・ザ・ブッチャーだった
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日本中が悲鳴を上げた、ブッチャーのフォーク攻撃

 時計の針を少し戻す。ブッチャーの初来日は1970年、当時はまだ全日本プロレスも新日本プロレスもなく、日本プロレスがブッチャーの戦場となった。この頃のブッチャーは、馬場や猪木と対戦し、実力を示してメイン・エベンターにのし上がっていく。
 その後、日本プロレスを追放された猪木が新日本プロレスを、そして独立した馬場が全日本プロレスを設立したが、ブッチャーは全日本に参加することになる(日本プロレスは間もなく崩壊)。その際、馬場がブッチャーに「オール・ジャパンに来てくれるな?」と訊いたら、ブッチャーは「オレにステーキを奢ってくれたのはユーだけだから行くぜ」と答えたそうだ。もっとも、馬場は「ブッチャーにステーキを奢った覚えはない」そうだが。
 しかし、ブッチャーの証言は違っており、ブッチャーは日本テレビに頼まれて、馬場に新団体設立を説得したという。

 ブッチャーが名を上げたのは、全日本プロレスに参戦してからだろう。今でも語り草になっているのは、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスとの抗争だ。
 ブッチャーはザ・シークと『地上最凶悪コンビ』を結成し、1977年の世界オープンタッグ選手権(世界最強タッグ決定リーグ戦の前身)の最終戦で、テリーの右腕にフォークを突き刺すという、前代未聞の凶器攻撃を加えた。東京・蔵前国技館の大観衆から悲鳴が上がる。いや、悲鳴を上げたのは、テレビも含めてこの試合を見ていた全ての人だろう。大袈裟に言えば、日本中が悲鳴を上げたと言っていい。この試合が、1990年頃に行われた全日本プロレス中継特番のファン投票で、ジャンボ鶴田vs.天龍源一郎の鶴龍対決を抑え、堂々の1位に輝いている。

 この前年、新日本プロレスではアントニオ猪木がモハメド・アリと闘い、その後も異種格闘技路線が大ヒット、人気で新日本が全日本を上回るようになった。
 それに危機感を抱いたテリーが、ブッチャーに相談を持ち掛け、フォーク攻撃という凄惨なシーンを演出したという。

▼テリー・ファンクの危機感から、壮絶なフォーク攻撃が生まれた

ブッチャーの全日本から新日本への移籍、その裏にあったものは?

 全日本プロレスのスター外国人選手になったブッチャーだったが、ザ・ファンクスや馬場&鶴田との抗争もマンネリになってきた。しかも、新日本プロレスとの人気の差は開く一方である。さらに、全日本プロレスにはブルーザー・ブロディという身体能力抜群のレスラーが台頭してきたので、流血戦が取り柄のブッチャーは色褪せるようになってきた。

 そして1981年、ブッチャーは新日本プロレスに引き抜かれることになる。このブッチャー移籍には、様々な噂が流れた。高額の契約金とギャラ・アップに、金に汚いブッチャーの目が眩んだ、などと言われている。
 一方で、新日本プロレス側はこれを否定。ブッチャーの移籍金はなく、ギャラもさほど高額ではなかったという。
 そして、ブッチャー移籍に暗躍したと言われるのが、ブッチャーの後見人のような立場だった漫画原作者の梶原一騎氏と、馬場や猪木の先輩であるユセフ・トルコだ。トルコもまた、ブッチャーのギャラは多少アップした程度だ、と証言していた。

 ところが、当のブッチャー本人は「新日本プロレスから全日本の倍のギャラを提示された」と自著『ブッチャー~幸福な流血~(東邦出版)』で明かしている。それが本当なのか、あるいはブッチャーの見栄によるものかはわからないが、「プロは金だ。自分をより高く買ってくれる所に行くのは当然」と書いていた。1990年のSWS事件や、プロ野球のFA移籍などを見てもわかるように、高額のギャラや年俸による移籍を日本人は拒絶する傾向にあるが、ブッチャーの見識はプロとして当然だろう。

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