[週刊ファイト10月25日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼ドン・レオ・ジョナサン追悼~若い頃は超イケメン。日本の女優を泣かせたことも・・・
by 井上 譲二
・オールドファンにとっては最も思い出の深い外国人レスラーの1人である
・日本マット参戦でも常にエース外国人扱いだった
・初来日時、力道山の後援者が主催するパーティーでジョナサンを紹介された新人女優が・・・
・ガンを完全に克服したジョナサンは87歳まで生き抜いたのだ
ドン・レオ・ジョナサン
本誌既報通り、50年代から70年代にかけて日米マットで大人気を博したドン・レオ・ジョナサンが10月13日(現地時間)、カナダ・ブリティッシュコロンビア州ラングリーの病院で死去。なんと87歳だった。豪快なパワーファイトが売りのジョナサンは日本のリングで力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木のみならずアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・デストロイヤー、ドリー・ファンクJR、アンドレ・ザ・ジャイアントなど強豪外国人とも激闘を繰り広げた。オールドファンにとっては最も思い出の深い外国人レスラーの1人である。合掌。
CAC(カリフラワー・アレイ・クラブ)総会でデストロイヤーと
ドン・レオ・ジョナサン(本名ドナルド・ヒートン)のプロレス・デビューは1950年。初来日はジャイアント馬場、アントニオ猪木が日本プロレスに入門する2年前の58年だから、かなり古いレスラーである。
だが、力道山没後に日プロと全日本プロレスに複数回、72年には国際プロレスにも参戦しているのでオールドファンで彼の名前を知らない者は少ない。何よりも巨体(196㌢、140㌔)を利した豪快なパワーファイトが印象的で、国際プロの『第4回IWAワールド・シリーズ』公式戦においてモンスター・ロシモフ(のちのA・ザ・ジャイアント)と対戦したときもまったく体力負けしなかった。また、日プロに来日したときは同団体の道場でのスパーリングでルーキー時代の坂口征二を力でねじ伏せたというエピソードもある。デビュー当時から将来を嘱望されたジョナサンは5年後の55年にはシカゴでルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。初来日時には力道山のインターナショナル・ヘビー級王座の初防衛戦の相手にも抜テキされている(※編注 10・2&10・30東京で2度挑戦し、いずれも1-0で敗退)。
ジョナサンと激闘を繰り広げた力道山
もちろん、その後の日本マット参戦でも常にエース外国人扱いだったが、日本人選手との試合がベビーフェイス対決となったため、会場のボルテージの高さはA・ザ・ブッチャーやタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンの試合ほどではなかった。
もっとも、ハリウッドスターばりの甘いルックスを持つジョナサンが悪どい攻撃で日本人選手を痛めつけても違和感があり過ぎてサマにならなかっただろう。
余談ながらシンの悪党ヅラは逸品。「米マットでは評価されていない」としたり顔で話す記者もいたが、シンが新日マットではなく米マットに定着していたら間違いなくトップヒールになっていた。
ジョナサンの出世が早かった要因もルックスの良さが50%で事実、ジョナサンの出場する会場には女性ファンが多数詰めかけたという。
日本ではこんなことがあったと伝えられている。