[ファイトクラブ]平成の新日本vs.全日本! Uインターを巻き込んだ神無月戦争

[週刊ファイト10月18日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼平成の新日本vs.全日本! Uインターを巻き込んだ神無月戦争
 by 安威川敏樹
・1981年に起きた蔵前大戦争から14年後、同じ10月にまた興行戦争が勃発
・理想のプロレス団体を目指したUWFインターナショナル
・プロレス界のみならず、格闘技界で世界最強を謳った高田延彦
・人気とは裏腹に、台所事情は火の車だったUWFインターナショナル
・古典的なプロレス技、足4の字固めで高田延彦を破った武藤敬司
・『鎖国プロレス』を貫いた全日本プロレス
・Uインターのエース外人だったオブライトが『鎖国』全日本に参戦
・川田利明はUWFの象徴・腕ひしぎ逆十字固めでオブライトを迎撃


 先週は1981年に起きた、新日本プロレスと全日本プロレスの興行戦争について書いた。当時は両団体とも創設10周年を迎え、新日本のアントニオ猪木と全日本のジャイアント馬場との対立もあり、最も興行戦争が激しかった時代である。そして10月、両団体による蔵前大戦争が勃発した。

▼[ファイトクラブ]新日本vs.全日本の蔵前大戦争! 老舗2団体が最も熱かった頃

[ファイトクラブ]新日本vs.全日本の蔵前大戦争! 老舗2団体が最も熱かった頃

 やがて昭和が終わり、時代は平成へと移っていった。新日本と全日本の2団体が突出していた時代から、多団体時代へと移行していたのである。そして蔵前大戦争から14年後の1995年、平成7年にプロレス界は大きな転換期を迎えていた。

 この年に起こった出来事といえば、1月17日に関西を襲った阪神・淡路大震災。そして3月20日には、オウム真理教による地下鉄サリン事件が首都を直撃したのである。バブル経済が崩壊し、立て続けに起きる大災害に、人々は世紀末に対して不安感を募らせていた、そんな時代だった。

 プロレス界では、4月2日に週刊プロレスの出版元であるベースボール・マガジン社が東京ドームでオールスター戦を開催。ライバル誌である週刊ゴング(日本スポーツ出版社)が反発し、プロレス雑誌大戦争が激化していた。プロレス団体同士よりも、マスコミ抗争の方が注目されていたぐらいである。

 この頃、新日本プロレスと全日本プロレスは、ライバル同士には違いないが、1980年代ほど熱く火花を散らしていたわけではなかった。平成元年の1989年に猪木が参議院議員となり、新日本は坂口征二がトップとなった。そのため、全日本の馬場は以前ほど新日本を敵視しなくなったのである。ちなみに、2期目となったこの1995年夏の参院選で、猪木は落選した。
 しかし、それは『“以前ほど”敵視しなくなった』だけであって、新日本と全日本が仲良くなったわけではない。全日本にとっての敵は、新日本のみではなくなっただけだ。
 そこで、この頃の全日本プロレスが採った政策が『鎖国』。他団体とは一切交流せず、独自のプロレスを全日本内で繰り広げて行った。

 そんな当時、新日本にとっても全日本にとっても、無視できないプロレス団体があった。UWFインターナショナル(Uインター)である。
 14年前と同じ10月に新日本と全日本が、そのUインターを巻き込んで、14年前とは違う形で興行戦争を繰り広げたのだ。10月と言えば神無月、プロレス界にも10月は神がいないのだろうか。

理想のプロレス団体を目指したUWFインターナショナル

この年の7年前、1988年に設立された第2次UWFは、空前のブームを誇っていた。従来のプロレスとは違う『真剣勝負』を謳い(もちろん、リアル・ファイトではなかったが、当時のUWFファンは真剣勝負と信じていた)、新日本プロレスや全日本プロレスは『実力なきレスラーが行う古いプロレス』というイメージを植え付けられ、UWFはプロレスに興味のなかったファンまで取り込んで大人気となったのである。
 が、僅か2年半で人気絶頂のまま第2次UWFはあっけなく崩壊。人気絶頂なのになぜ? と今のファンなら不思議に思うかも知れないが、レスラーとフロント、そしてレスラー同士の確執が崩壊の原因だった。

 1991年、UWFは3派に分かれた。そのときに誕生したのが、UWFのエースだった前田日明が興したリングス、前田の兄貴分だった藤原喜明のプロフェッショナルレスリング藤原組、そして前田の弟分だった高田延彦のUWFインターナショナルである。
 Uインターは、UWFが否定したプロレスを、もう一度復権させるというのがコンセプトだった。そのため、『プロレスこそ最強』という路線を打ち出したのである。
 と言っても、あくまでもUWFスタイルは貫いた。ピンフォールはなしで勝負決着はKOかギブアップ、そしてポイント制を採用した。そのため、Uインターも真剣勝負だと信じていたファンは多かったのである。

 Uインターがプロレス的だったのは、エースの高田延彦を絶対王者に据えるという戦略だった。UWFは『格がない』というのが売り物だったが、それを排して従来のプロレスのように『格』を復活させたのである。
 言ってみれば、アントニオ猪木が全盛期だった頃の新日本プロレスの再現だ。当時は新日本が闘魂三銃士、全日本は四天王とエース複数制を採っており、絶対的エースが存在しなかった。しかしUインターは、猪木を頂点としていた頃の新日本を理想の団体としていたのである。

 元ボクシング世界ヘビー級王者のトレバー・バービックと異種格闘技戦を行ったのも、猪木の路線を踏襲したものだった。他の格闘技と闘い、勝ってプロレス最強を世間に知らしめる、という戦略である。
 もちろん、プロレス内でも『高田延彦が最強』を示さなければならない。その点、UインターはU系団体の中でも選手層が厚かったのは好都合だった。№2には、誰もが実力者と認める山崎一夫がおり、高田の『噛ませ犬』として山崎はうってつけだった。猪木がエースだった頃の新日本で言うと、坂口征二のような存在だ。
 元横綱の北尾光司が山崎を粉砕し、『あの山ちゃんでも歯が立たなかった凄い奴』と北尾の強さを存分に見せ付けたうえで、高田が北尾をハイキックで仕留めるという、格好のシナリオとなったのである。

 猪木がエースだった頃の新日本と違う点は、多団体時代を迎えていたことだった。そのため1994年には、橋本真也(新日本)、三沢光晴(全日本)、天龍源一郎(WAR)、前田日明(リングス)、船木誠勝(パンクラス)という各団体エースへ一方的に招待状を送り付け、『Uインターのトーナメントに優勝したら、これをくれてやる』と、1億円の現ナマを机に並べて記者会見を行うという破廉恥なこともやった。これは猪木ですら思い付かなかったアピールだろう。

 外国人レスラーを次々と倒し、格闘技世界一決定戦でも勝利を重ねた高田延彦は、Uインターの戦略通り『最強』の名を欲しいままにしていた。『プロレスが最強の格闘技であり、そのプロレスで最強の高田延彦は、格闘技でも世界最強の男』という、アントニオ猪木と全く同じ論理で、ファンから大きな支持を得ていたのである。

 しかし、その陰でUWFインターナショナルの台所事情は火の車だった。

▼UWFインターナショナル時代は『最強』がキーワードだった高田延彦

古典的なプロレス技、足4の字固めで高田延彦を破った武藤敬司

 U系団体は全日本や新日本と違って試合数が少ない。真剣勝負に見せるためである。Uインターも例外ではなかった。そのため、収益のためにはどうしても日本武道館や明治神宮球場などの大会場に頼らざるを得ない。しかし、大会場以外の興行では全くペイできなかった。いや、大会場だって会場費などの経費が莫大だから、決して楽とは言えない。
 しかも、全日本や新日本にはテレビ中継があったが、Uインターにはそれもなかった。テレビ局からの放映権料もないため、自転車操業が続く。

 貧すれば鈍する、Uインターの内部は人気とは裏腹に、ガタガタになっていた。1995年6月には、高田延彦が『近い将来に引退する』と唐突に発言。その後、参院選出馬を表明し、7月に落選した(このときに猪木も落選)。ちょうど同じ頃、山崎一夫が辞めてフリーとなる。若手のホープ田村潔司もギャラの面で不満を現し、Uインターから心が離れていた。
 経営面だけではない。前年の12月には『影の実力者』と言われた安生洋二がグレイシー道場に殴り込んだものの、ヒクソン・グレイシーにフルボッコにされて『プロレスは最強』の看板に泥を塗った。『本当にプロレスは、Uインターは最強なのか?』とファンに疑われたのである。

 かくなるうえは対抗戦しかないと、新日本プロレスに打診した。Uインター側は若手同士の対抗戦を提案したが、新日本側は全面対抗戦を主張。当時の新日本プロレスの現場責任者は、UWF嫌いの長州力。長州はUインターを叩き潰すつもりでいた。
 Uインターも背に腹は代えられない。このままではジリ貧になって、倒産が待っているだけだ。高田延彦も、新日本側の要求を飲まざるを得なかったのだ。

 決戦の日は1995年10月9日。14年前の1981年10月8日には、新日本プロレスが全日本プロレスに対し、東京・蔵前国技館での興行戦争を仕掛けたのは先週お伝えした通りだ。14年後、歴史は繰り返す。今度の新日本プロレスのターゲットは、UWFインターナショナルだ。
 新日本プロレスvs.UWFインターナショナルの全面対抗戦を観るために、6万7千人(主催者発表)が東京ドームに詰め掛けた。メイン・エベントは武藤敬司vs.高田延彦のエース対決である。

 このカードが発表されたとき、多くの人は高田の勝利を予想した。武藤はプロレスラーとしては天才的だが、最強を目指すタイプではない。しかも、武藤が敗れても後ろには橋本真也や蝶野正洋が控えている。武藤が敗れても、新日本にはさほど傷は付かない。
 一方のUインターは、高田が一枚看板だ。高田が敗れると、もう後はない。いくら新日本でも、高田を負けさせることはしないだろう……。

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