[ファイトクラブ]皇帝戦士の早すぎる死! スーパーパワーで時代のはざまに現れたベイダー

[週刊ファイト7月5日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼皇帝戦士の早すぎる死! スーパーパワーで時代のはざまに現れたベイダー
 by 安威川敏樹
・昭和から平成へ、20世紀から21世紀への時代の変わり目に出現したベイダー
・予定より3ヵ月早く(?)、体重5,300gの巨大なベビーが誕生
・初来日はレスラーとしてではなくフットボーラーとして
・スタン・ハンセンからプロレスの洗礼を受ける
・大暴動を巻き起こした、衝撃的な日本デビュー
・スタン・ハンセンとのド迫力の肉弾戦
・橋本真也との日米パワー対決


 既に本誌で報道しているように2018年6月18日、”皇帝戦士“ことビッグバン・ベイダー=本名:レオン・アレン・ホワイトさんが亡くなった。享年63歳。また偉大なプロレスラーが若くしてこの世を去ってしまった。
 ベイダーは世界を股に掛けたスーパースター。ちょうど昭和から平成のはざまに現れて、20世紀末および21世紀初頭に大活躍したという、まさしく時代の変わり目に出現したヒーローだった。

 日本での登場の仕方もインパクト絶大。まさしく一夜にしてスターとなったシンデレラ・ボーイ(この呼び方はイメージに合わないが)、身長190cm、体重170kgの巨体を活かしたパワー・ファイターながら、トップ・ロープからのベイダー・サルト(ムーンサルト・プレス)まで放つという身軽さも持ち合わせていた。
 ちょうどその頃、新日本プロレスではクラッシャー・バンバン・ビガロのように巨体ながら空中殺法もこなせる外国人レスラーが席巻しており、ベイダーの登場は新しい時代を予見させるものだった。

予定より3ヵ月早く(?)、体重5,300gの巨大なベビーが誕生

 ベイダーことレオン・ホワイトさんが生まれたのは1955年5月14日、アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルスに近いリンウッド。普通の赤ん坊は母親の胎内に十月十日いるものだが(ホントに十月十日なのかは知らないが)、ベイダーの場合はなんと7ヵ月半での早産だった。

 早産の理由はハッキリしている。ベイダーが大き過ぎたのだ。
 普通の新生児は体重が約3.000gだが、ベイダーが生まれたときの体重は11ポンド10オンス。メートル法に直すと、何と約5,300gの巨大な赤ちゃんだった。
 あまりの大きさに驚いた医者が、慌てて母親の胎内から取り出したという。さしずめスーパー・ベビー級といったところか。もし十月十日も母親の胎内にいたら、どれぐらいの体重になっていただろう。
 ベイダーの父親も190cm、180kgの巨体だった。ベイダーの兄も同じような体格だったらしい。治安が悪い地区で育ったため、子供の頃は相当なワルさもしたという。

 しかし高校に入るとアメリカン・フットボールで、有望な選手として注目された。約40校もの大学から勧誘を受け、高校卒業後はコロラド大学に進学。ロスから離れたコロラドを選んだ理由は、ベイダーによると『ディズニーランドのようだったから』だそうだ。

 ベイダーの初来日は、プロレスラーとしてではなくフットボーラーとしてである。この頃、全米大学の東西オールスター戦として、日本でジャパンボウルが開催されていたのだ。ベイダーは西軍の選抜チームのオフェンシブ・ラインとして来日している。
 最近の日本ではアメフトの悪質タックル問題が騒がれているが、当時の日本でのアメフト人気は今とは比べ物にならないほど高かった。1970年代後半のジャパンボウルでは、国立競技場に約6万人もの大観衆が詰めかけていたのである(主催者発表)。

▼ベイダーはアメフトの選手として初来日(写真の試合にベイダーは出場していません)

 1978年にはNFLの地元ロサンゼルス・ラムズに入団。プロ・フットボーラーとしての道を歩み始めた。しかし、ダラス・カウボーイズとの試合中に相手選手の強烈なブロックを受けて負傷退場。本人によると右足が横に、直角に曲がるほどの重傷だった。
 手術した医者からは「一生、普通には歩けないだろう」と宣告された。絶望感に襲われたベイダーだが、懸命なリハビリの結果、普通に歩くどころかグラウンドに戻るという、医者も驚くほどの回復力を見せた。

 とはいえ、以前は巨体に似合わぬ俊足ランナーだったが、もはやスピードは元に戻らなかった。プロとしては通用せず、ラムズを解雇されたためアメフトを諦めざるを得なかったのである。
 ベイダーに残ったのは、一般社会では無駄とも思える巨体のみだった。

スタン・ハンセンからプロレスの洗礼を受ける

 フットボーラーとしての道を断たれたベイダーが考えたのは、巨体を活かす仕事だった。学生時代はボクシングのゴールデン・グローブで活躍したので、プロボクサーへの道も有り得た。しかし膝を故障していればフットワークにも支障をきたすし、しかもいくらヘビー級といえどもベイダーは巨体過ぎる。
 結局、ベイダーが行き着いた結論はプロレスラーへの転向だった。(ブラッド・)レイガンズ道場に入門し、プロレスラーとしての修業を積んだ。そして1985年、ベイダーはプロレス界にデビューする。

 ベイダーにとっての初マットはAWA。当時のAWA世界ヘビー級チャンピオンはスタン・ハンセンだった。1986年当時のベイダーは、ハンセンに何度も挑戦している。
 その結果は、ベイダーの述懐によると「コテンパンにやられた」。デビュー間もないグリーン・ボーイが、百戦錬磨で世界チャンピオンのハンセンに敵うはずもなかった。

▼ベイダーにとり大きな壁となって立ちはだかったスタン・ハンセン

 ハンセンにプロレスの厳しさを教えられたベイダーはヨーロッパに渡り、CWA(キャッチ・レスリング・アソシエーション)を転戦した。そして1987年1月、オットー・ワンツを破りCWA世界ヘビー級チャンピオンとなる。ベイダーにとって、まさしくプロレス人生の日の出と言ってもいい。

 この頃、当時は新日本プロレスの『闘魂三銃士』の一人、蝶野正洋と遭遇している。さらにCWAでの実績が評価されたのか、マサ斎藤にスカウトされた。
 ベイダーとすればヨーロッパ遠征は大正解。アメフト時代に失いかけた運が、急に回ってきた。

▼グリーン・ボーイ時代のベイダーがハンセンのAWA王座に挑戦
https://www.youtube.com/watch?v=kuR22O8Lcx4

大暴動を巻き起こした、衝撃的な日本デビュー

 日本中にベートーベンの『第九』が流れていた年の瀬の1987年12月27日、ベイダーはビッグバン・ベイダーを名乗り、両国国技館で衝撃的な日本デビューを飾った。
 当時、人気タレントのビートたけしが『たけしプロレス軍団(TPG)』を結成、新日本プロレスに挑戦状を叩き付け(もちろんアングル)、その刺客としてマサ斎藤が連れてきた、日本では無名だったベイダーを起用したのである。

 この日のカードは当初、藤波辰巳(現:辰爾)&木村健吾(現:健悟)vs.マサ斎藤&ビッグバン・ベイダーのタッグ・マッチ、そしてアントニオ猪木vs.長州力と発表されていたが、たけし軍団のガダルカナル・タカとダンカンがリングに上がり、猪木に対し「ベイダーと闘ってください!」と挑発。猪木も「受けてやるかコノヤロー! お客さん、どーですか!?」と客に賛否を問うアピールした。
 陳腐なアングルだが、当時の新日ファン(というより信者)はアントニオ猪木こそが神で、神聖な新日マットを汚すビートたけしは許せない存在だったのである。

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