[ファイトクラブ]リングで逢ったその日から、恋の花咲くこともある!? レスラーのラブ・ロマンス

[週刊ファイト6月21日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼リングで逢ったその日から、恋の花咲くこともある!? レスラーのラブ・ロマンス
 by 安威川敏樹
・本間朋晃がめでたくゴールイン!
・妻が4人いた力道山
・力道山に負けじと4度の結婚! アントニオ猪木
・猪木の結婚生活は火種の宝庫
・力道山や猪木とは対照的なジャイアント馬場
・山本小鉄へのコンドームのプレゼントで馬場元子さんが大激怒!
・初代タイガーマスク『マスク着用の結婚式』がプロレス引退の引き金!?


 5月31日、本間朋晃が昨年8月に千恵さんという一般女性と入籍していたとテレビ番組で明かした。四十路になってのゴールインという実にめでたい話だが、会話が成立するのだろうかと他人事ながら心配になった。
 怪我で入院していた本間を、千恵さんは献身的に看病していたという。そういえば最近、福岡ソフトバンク・ホークスの王貞治会長も78歳で再婚したと発表されたが、18歳下の新婦(と言っても60歳だけど)は王会長が胃癌で入院していた時に、ずっと身の回りの世話をしていたそうだ。

 プロレスラーも有名人だけに、ビッグ・カップルは多い。現在、最も有名なのは佐々木健介&北斗晶の夫婦だろう。と言っても若い人は、北斗晶はともかく佐々木健介がレスラーだったなんて信じられないかも知れないが。
 今回は、プロレスラーのラブ・ロマンスを追ってみよう。

▼佐々木健介&北斗晶ファミリー

妻が4人いた力道山

『日本プロレスの父』と言えば力道山。力道山がいなければ、日本にプロレスは根付かなかっただろう。
 そんな力道山にも、妻は4人もいた。と言っても『二号さん』が3人いたわけではない。

 力道山にとって初めての結婚は、なんと15歳のとき。力道山は、当時は日本領だった朝鮮半島出身だが、大相撲の玉ノ海が力道山をスカウトし日本に連れて行こうとしたので、猛反対した力道山の母親が強引に息子の力道山を結婚させたという。
 しかし力道山は新婦を捨て、日本で力士となった。

 2人目の妻は日本で出会った芸妓で、内縁関係だったという。後にプロレスラーとなる、百田義浩と百田光雄の母親だ。
 3人目の妻は、東京・日本橋の芸者だった。百田義浩と百田光雄にとって育ての母だ。

 そして4人目の妻は、最も有名な田中敬子さん。しかし、結婚半年後に力道山は亡くなった。

▼力道山にとって、4人目にして最後の妻・田中敬子さん

 田中敬子さんは日本航空のスチュワーデス(キャビン・アテンダント)だったが、力道山は知人から田中敬子さんの写真を見せられて一目惚れ。日航に電話を掛けて、田中敬子さんが搭乗する便を調べ上げて、偶然を装い初遭遇に成功。
 その後も力道山は何度も食事に誘うが、プロレスのことなど知らない田中敬子さんは「有名人とプライベートでお会いするのは社内規定で禁止されていますので」と大ウソを言って断り続けた。

 ところが力道山は諦めず、そのうち田中敬子さんの自宅まで電話が掛かってくるハメに。今だったら間違いなくストーカー行為で逮捕されているところだ。
 しかし、力道山の猛アプローチに、田中敬子さんはとうとう根負け。力道山にとって最後の夫人となった。

▼[ファイトクラブ]力道山夫人が『観光プロレス居酒屋リングサイド大阪』にやって来た!

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力道山に負けじと4度の結婚! アントニオ猪木

 力道山の弟子・アントニオ猪木も師匠に負けていない。力道山の死後、猪木はアメリカ遠征した。このとき、オレゴン州ポートランドで出会ったアメリカ人女性と最初の結婚している。が、籍は入れてなかったらしい。女児が生まれたが、夫人と別れた後に死亡してしまった。
 日本でも一緒に暮らしていたが、別れた原因は猪木が夜の街で遊んで、妻をほったらかしにしていたことらしい。アメリカ人女性にとって、自分がほったらかしにされるほど許せないことはない。

 二度目の結婚は、ご存知女優の倍賞美津子。1971年当時、猪木がまだ日本プロレスに所属していた頃で、「女優・倍賞美津子との恋が始まって……、ウフフ!(漫画『プロレススーパースター列伝【原作:梶原一騎、作画:原田久仁信】』より引用)」と猪木は照れているが、そのときはジャイアント馬場も同じ釜の飯を食っている仲間だった。
 猪木は1億円近い費用をかけた超豪華な結婚式を挙げている。「レスラーと女優で豪華な結婚式を挙げればプロレスの宣伝になる」と、猪木が日本プロレスの幹部を口説いたのだ。もちろん、結婚式には馬場も駆け付けて猪木を祝福した(トップ画像参照)。

 当然、その費用を日本プロレスに払わせるつもりだったが、困った事態が起きた。猪木が日本プロレスの乗っ取りを企てたとして、永久追放処分になったのである。いきなり路頭に迷う羽目になったうえに、結婚式費用も払ってくれるはずがない。結局、猪木の手元には1億円近くの借金だけが残った。
 さらに、新団体の新日本プロレス設立にも金がかかる。自宅も道場に改装した。当初はノー・テレビで団体収入もほとんどなく、まさしく綱渡りの生活だった。

 倍賞美津子はそんな中でも猪木を必死に支えた。猪木と倍賞美津子、そしてその付き人の3人でラーメン屋に入ったときも、倍賞本人は「私はお腹の調子が悪いから」と言ってラーメンを食べなかったのだ。
 もちろん、腹痛は口実で、実際にはお金がなかっただけだ。大スターを目指す女優が、ラーメンすらもすすれなかったのである。

 その後、新日本プロレスは大ブームを巻き起こすが、それも倍賞美津子の支えがなければ、繁栄はなかっただろう。しかし猪木は、最愛の妻を裏切ってしまう。
 新日本プロレスは大儲けしていたはずなのに、猪木が興した事業『アントンハイセル』が多額の負債を抱え、またもや大きな借金を背負うことになった。しかも、その現実から逃れるように猪木は浮気に走ってしまった。また、倍賞美津子自身にも、他の男性との噂があった。
 そして1987年、猪木は遂に倍賞美津子と離婚してしまう。

 その後、猪木は飛行機で隣り合わせた、22歳も年下の女性と付き合うようになり、倍賞美津子と離婚した僅か2年後の1989年にその女性と再婚。三度目の結婚となった。
 しかし2012年、またもや猪木の浮気が原因で離婚。浮気という名の病気は一生モノのようだ。


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