[週刊ファイト5月17日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』㊶
谷津さんとSPWFの頃
・4月30日WWS籠原大会:谷津嘉章さんとの再会
・1981年の新日本プロレス『6・24蔵前スーパーファイト』
・SWSではハルク・ホーガンのWWF(当時)世界ヘビー級ベルトに挑戦
・千葉県長生郡一ノ宮町SPWF道場への出稽古と『道場マッチ』
・巡業を行っていた最後のインディー団体SPWF“どさ回り”
・大男たちが『一台の車に何人乗れるか?』“ギネスに挑戦”
・ペイントレスラー津谷章嘉:谷津さんが津谷との使い分けをしていた時期
・ケン・片谷vs.津谷章嘉のシングルマッチ:心臓が口から飛び出すくらいに緊張
・試合を境にあることを心に誓った!
・ケン・片谷が津谷章嘉の影武者@板橋グリーンホール
・『谷津と津谷別人説』『谷津と津谷が共闘か?』
感激!谷津嘉章さんとの再会。SPWF一ノ宮道場と道場マッチの思い出。緊張しかなかった、谷津さんとのシングルマッチ。君は津谷章嘉を覚えているか!?
何と、津谷章嘉の影武者に抜擢? 復活なるか? 津谷章嘉。
4月30日WWS籠原大会で、懐かしい方にお会いすることができました。
新日本プロレス→ジャパンプロレス→全日本プロレス→SWS→SPWF→WJと渡り歩き、常に第一線で活躍されてきた谷津嘉章さんです。
谷津さんの日本デビュー戦のことは鮮明に覚えています。
1981年の新日本プロレスのビッグマッチ『6・24蔵前スーパーファイト』がその舞台でした。
半年前、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで華々しいデビューを飾った谷津さんが、国内で初めて試合をした日です。
谷津さんは、メインで猪木さんとタッグを組むという異例の大抜擢。将来の期待とスーパールーキーぶりが十二分に窺えました。
対戦相手がこれまたスゴい!
スタン・ハンセン&アブドーラ・ザ・ブッチャーという、当時の新日本のトップ外国人選手同士のタッグ結成で、大変な話題となりました!
試合は、全く予想外の展開となりました。ラフ攻撃に慣れていない谷津さんを、ハンセンとブッチャーが徹底的に攻めまくり、谷津さんは血ダルマKO!
あまりにふがいない闘いぶりに、谷津さんはそのまま海外武者修行に逆戻りを余儀なくされました。
その後は、長州さん率いる維新軍団に加勢。長州さんのタッグパートナーに指名されました。
全日本プロレス移籍後も、鶴田さんとの“五輪コンビ”で、数々のタッグタイトルを総ナメにするなど“タッグ屋”としてのイメージが強い谷津さんですが、SWSではハルク・ホーガンのWWF(当時)世界ヘビー級のベルトに挑戦したこともあります。
オイラが谷津さんにお世話になったのは、SPWFの時でした。
SPWFは、SWS崩壊後、谷津さんが旗揚げした団体です。
このSPWFは、当時としては非常に画期的な団体で、選手の構成を1軍(プロレスラー)、2軍(社会人プロレス&学生プロレス)、3軍(アマチュア)に分け興行を行いました。
それまで、狭き門であったプロレス団体入門の門戸を広げた、草分け的存在の団体となったのです。
当時、2軍だった選手の多くは、今でも各団体で活躍をしています。
2001年頃、旗揚げ間も無い弊社CMAプロレスリングは、練習場所探しに迷走していました。経験の浅い新人選手を数名抱えていたものの、都内にはリング練習できる場所がほとんど無かったのです。
そこで、当時千葉県長生郡に道場を構えていたSPWFに、頻繁に出稽古することになったのです。
東京のお隣りの千葉県といえども、SPWF道場があった長生郡一ノ宮町は、外房の茂原のもっと先にありました。
東京駅から特急に乗っても一時間以上掛かります。しかし、経費はできるだけ抑えたいので、毎回鈍行で通いました。ましてや、オイラは横浜から通っていたので、いつも遠足のようでした(笑)!
SPWF道場では、月に一度若手主催の『道場マッチ』が行われていました。プロレスファンはもちろん、地域の方々に日頃の練習の成果を観ていただくことに主眼を置いた大会でした。
ここで我々は多くのものを学ばせていただきました。
若い選手にとって、場数を踏むことは成長への何よりの近道です。それまで、数ヵ月に1試合程度しか組まれなかったCMAの新人選手も、道場マッチに出場させていただくことで、みるみる成長していったという記憶があります。
もちろんオイラ自身、SPWF道場での経験がその後のレスラー人生において大きな糧となっています。
距離的に遠かったSPWF道場でしたが、宿泊もできましたので、泊まり掛けで出向くことが多くなりました。
道場生と一緒に寝泊まりし、同じ釜の飯をつつく。夏にはすぐ近くの浜で海水浴をしたり、冬は近隣の住民の方を交えちゃんこパーティーを行ったり・・・。
様々な経験とともに、レスラー、ケン・片谷を成長させてくれた場所でもあります。
SPWFは、道場マッチと平行して、通常のプロレス興行も行っていました。
そのうちオイラも、都内の興行や地方巡業に同行させていただくことになりました。
現在では、巡業を行っている団体は非常に少なくなりました。
地方で興行を打つことはあっても、そのほとんどは単発で、移動しながら各地を転戦するといったスタイルを取ることはほとんどありません。
かつて、隆盛を誇っていた“古き良きプロレス”の頃は、言い方は悪いが“どさ回り”は当たり前でした。
オイラも、子どもの頃に記憶がありますが、一年に一度あるいは数年に一度地元でプロレス興行があると、『おらが町にプロレスがやって来た!』と大喜びしたものです。
そんな貴重な体験ができたのは、インディーではSPWFが最後だったと言ってもいいのではないでしょうか?
大男たちが、マイクロバスやリングトラックに分散して乗車し、長距離移動する様は、まるで『一台の車に何人乗れるか?』といった“ギネスに挑戦”のようでした(笑)!
谷津さんはじめ、身長190㎝超えの太刀光さんや外国人選手ら、スーパーヘビー級が何人もいたので無理はありませんね。
しかし、これもまた巡業の醍醐味。大先輩レスラーと何時間も同乗し、色々な話が聞けるのですから、こんな機会は滅多にありません。
SPWFの巡業中のエピソードは数えきれませんが、一度だけ選手スタッフ全員で観光に出掛けたことがありました。
それは、毎年必ず行っていた東北巡業のとあるオフの日、岩手県の中尊寺にみんなで詣でたのです。
ちょうど、平泉の文化遺跡群が世界遺産に認定された直後でしたので、多くの観光客で賑わっていました。
そんな中を、前述した大男たちが闊歩したのですから、注目の的になったことは言うまでもありません!
体重100㎏超えの集団が、フーフーと息を切らしながら本堂までの長い坂道を上って行ったシーンが今でも蘇ります。
ところで、谷津さんにはもうひとつの“顔”があることを覚えているでしょうか?
『津谷章嘉』
これぞ、まさしく谷津嘉章の分身なのです!