ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』㊴[ファイトクラブ]野球とプロレスに夢中だった少年時代

[週刊ファイト5月3日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』㊴
 野球とプロレスに夢中だった少年時代
・重度のぜん息に悩まされた“知られざる過去
・時はまさに“少年野球ブーム”
・関東に住みながら、熱狂的な阪神タイガースファン
・新日本、全日本、国際3団体時代“もうひとつのスポーツ”の虜に
・なかなか白山駅までたどり着かない理由
・プロレス“密航”という言葉が流行
・プロレスMSG、野球メッツのシティフィールド、ヤンキース・スタジアムへ
・『お父さん、ありがとう!』


 ケン・片谷の知られざる幼少時代。誰も信じてくれない過去とは? 野球とプロレスが全てだった。全国…いや、世界中どこでも追っ掛けます!

今回は、オイラの“知られざる過去”についてお話ししたいと思います(笑)。
オイラは1967年、横浜市戸塚区に生まれました。今でこそ高層マンションやデパートが立ち並び、いっぱしの都会になりましたが、50年前の我が地元といえばそれはそれは田舎でした。
当時はまだJRの駅も無く、周囲は山に囲まれていました。山では普通にカブトムシやクワガタが捕れましたし、信じられないかも知れませんが、道端にタヌキが出ることも珍しくありませんでした。

そんな、横浜といえども片田舎の、わりと大きな団地で育ちましたので、近所には同年代の子供がたくさんいました。
昭和のガキ大将が勢揃い! という時代ですので、暗くなるまで泥んこになって野山を駆けまくっていました! と、言いたいところなのですが、残念ながらオイラに限っては一切そんなことはありませんでした。

子どもの頃のオイラを知らない人には、絶対に信じてもらえないことなのですが、実はオイラはとても体の弱い子どもでした。
なんと1才児の時から、重度のぜん息に悩まされていたのです。さすがのオイラも、1才の時の記憶はありませんので、物心ついた頃にはすでに“ぜん息持ち”の体になっていたのです。

夜中になると、毎晩のように発作が出ました。本人はもちろん苦しいのですが、家族も同時に寝られなくなるため、睡眠不足でストレスが重なりました。
小学校に上がる頃には、ぜん息の発作はひどくなる一方でした。後になって聞いたことですが、病院併設の養護学校に入れるか否か、両親は常に真剣に話し合っていたそうです。

そんな体でしたから、当然学校も休みがちで運動も全くできませんでした。
体育の授業もほとんど見学。子どもなら誰もが楽しみにする運動会でさえ見学を余儀なくされるほどでした。
今のオイラからすると、想像もつかないかも知れませんが、高校で柔道を始めるまでは体型もガリガリでした。中学3年生の時には、身長は今と同じで体重は60㎏しかなかったのです。あばらが浮き出て、まるで骸骨のようでした(笑)!

小学校当時は、誰もが野球に夢中になる時代でした。現在と違い、娯楽も限られていましたから毎晩テレビ中継される野球に人気が集中したのでしょう。
時はまさに“少年野球ブーム”。団地の友達は、ほとんどが少年野球チームに所属していました。団地内には、複数の少年野球チームが存在しました。それだけ子どもの数も多かったのだと思います。
『僕は、一番強い〇〇〇に入る!』『ユニフォームがカッコいいから、僕は△△△に入る!』
とみんな好みのチームを選んでいました。

オイラだって野球は大好きでした。ところが、少年野球チームに入ることは、父親から猛反対されました! 理由はもちろんぜん息です。そんな体で運動は無理との判断です。
その代わり、当時流行っていたハムスターを飼いたいとねだったのですが、動物の毛はぜん息によくないと、こちらも反対されてしまいました。

 野球場では、ファイト・オブ・ザ・リングなどで活躍中の千葉智紹選手とバッタリ会うことがよくあります。

友だちと一緒に野球をすることができず、オイラはずっと塞ぎ込んでいました。
そんな息子を不憫に思ったのか、父親は頻繁に野球観戦に連れて行ってくれました。
当時からオイラは、熱狂的な阪神タイガースファンでした! 在阪球団のタイガースですが、後楽園、神宮、川崎に遠征に来た時は、平日だろうが休日だろうがほとんどの試合に連れて行ってくれました。
これには、近所の野球少年もうらやましがるほどでした。

ただひとつ、困ったことがありました。今でこそ、プロ野球12球団どのチームのグッズも簡単に手に入りますが、当時、関東で売っていたのはほとんどが読売ジャイアンツのグッズでした。ほとんどの子が被っていた野球帽も大半がジャイアンツのものでした。そんな中、クラスでただ一人、オイラだけがタイガースの帽子を被っていたのです。前日の試合で、ジャイアンツがタイガースに勝とうものなら、オイラ一人が集中攻撃を浴びるわけです!
衝突も毎日のようにありました。多勢に無勢、とても勝ち目は無いのですが、オイラも負けじと食い下がりました。
関東に住みながら、あくまでタイガースを応援し続けたのです!

 甲子園にはたびたび遠征!

小学5年生の時に、大洋ホエールズがフランチャイズを川崎から横浜に移しました。すると、球場が近くなったことで子ども同士でも野球観戦に行くようになりました。
地元横浜に、プロ野球球団がやって来たことにより、それまで以上に観戦回数が増えたのです!

その頃になると、オイラは“もうひとつのスポーツ”の虜になってしまいます。
そのスポーツとは…言うまでもなくプロレスです!
当時のプロレス界は、タイガーマスク登場で、空前の新日本プロレスブームとなるちょっと前。例えるなら、“プロレスの夜明け前夜”とでも言いましょうか?
世は、新日本、全日本、国際3団体時代。各団体のドル箱カードは、猪木vs.シン、馬場vs.ブッチャー、木村vs.ジプシー・ジョーでした。こうやって思い出しているだけでも身震いするほどのカードです。

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ジプシー・ショーvs.ジャンボ鶴田@全日本プロレス

オイラが初めてプロレスを生観戦したのは、1980年6月の国際プロレス『ビッグサマーシリーズ』後楽園大会でした。誰しも、初めての生観戦というのは強烈に印象に残っていることでしょう。オイラも例に違わず、一気に国際プロレスの大ファンとなりました!
しかし、その翌年には国際プロレスは経営難で倒産してしまいます。残念ながら、国際の生観戦はわずか2回でその幕を閉じてしまいました。

ぜん息の影響で、中学まではほとんど運動らしい運動ができなかったオイラですが、高校に入ると徐々に体力も付いてきて、何か部活動に入りたいと思いました。
当時、一番仲の良かった友達が柔道部に入りました。するとオイラも後を追うように柔道部に入ったのです。
それまで運動経験の無い、ぜん息持ちのオイラが、いきなり柔道に入るなんて無謀でしかありません。しかし、柔道部に入部したのには理由がありました。柔道部は練習後に、道場の畳の上で思う存分プロレスごっこができるという噂があったのです(笑)!
今思えば、これがプロレスラーヘの第一歩だったのかも知れませんね。

大学に入り、再び時間ができたオイラは、益々野球&プロレスの観戦頻度が増すことになります。そこには、プロ野球ファン、プロレスファンには持ってこいの条件が揃っていたのです!
オイラにとって最初の大学となったT洋大学は、文京区の白山にあります。自宅から大学までは、JRで東京駅まで行き、そこから都営三田線に乗り換えて白山駅まで通っていました。
しかし、なぜかオイラはなかなか白山駅までたどり着かなかったのです。

 神宮球場

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