[週刊ファイト3月15日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼格闘プロレスの至宝!船木誠勝デビュー30+3周年トークイベント
3・3松竹角座詳細:秘めたる想いかく語りき!
Photo by Text by ルーツ鐘中
・ゲストに初代タイガーマスクこと佐山サトル、往年の”過激な仕掛人”新間寿氏
・松竹芸能エール橋本の司会による前口上からスタート
・ゲスト佐山サトルいよいよ登場
・ミスター進軍ラッパこと新間寿氏登場、大いに語る。
・イベントを振り返ってみて・・・「フナッキーは本当にシャレにならない」
チャンピオンベルトはアクセサリーやアイテムではなく頂点を極めたものが腰に巻く、肩にかける姿がふさわしいのだというのを体現する数少ないザ・プロフェッショナルレスラーである船木誠勝
2018年3月3日(土)15時3分(pm3時3分)より松竹角座にて船木誠勝トークイベントが、ゲストに業界入りのきっかけともなった憧れの初代タイガーマスクこと佐山サトルと、往年の過激な仕掛人、新間寿氏という豪華布陣により催された。
まず船木のプロモ映像が流された。
松竹芸能エール橋本の司会による前口上からスタート
エール橋本は、あの船木誠勝ご本人を前にして色々聞くワクワク感を来場したファンを前に強調した。
そして満を持して登場した船木は、トークイベントを企画していただいた感謝の旨、憧れの人とファンの前でじっくりと語ってみたい。リアルジャパンプロレスの興行でお会いすることはあっても普段はその機会がないものだと語った。
―プロレス心ありきのエール橋本の司会進行よってスタート
プロレスを知ったのは1977年世界最強タッグ決定リーグ戦のザ・ファンクスvs.ザ・シーク、アブドーラ・ザ・ブッチャー戦で、ミル・マスカラスを観てプロレスのとりこになり、初代タイガーマスクを観て憧れ夢中になり、やがて新日本プロレスに入門したいという気持ちになった。
エール橋本が船木さんは松竹芸能の新人であると(すでにニュースになっているのでファンは知っていると思われるが)そこのところを紹介。
船木は今、着用しているのは人生初のオーダーメイドの背広なんです、大阪に来て(住んで)3年、誕生日が3月13日、デビュー戦が3月3日、3年前がデビュー30周年という、その符号でイベントは3月3日昼3時3分に開始という。
(オーダーメイドの背広も、マニアならば憧れの大先輩を前にして語ることに対する礼儀なのではと深読みをしてしまいたいものだ。)
新日本プロレスに入団はできたが練習生は1年契約だったのでその時が来ると契約が切られるのかもと鳴り物入りではなく格闘技経験もないので、ひやひやしていたものだった。
デビュー戦から新人時代の思い出、そしてプロレス入りに関しては相撲が好きで、自分が中学生になって立ち向かっても勝てなかった家長のおじいちゃんのみで、大いに後押しして貰えたこと。
デビューして、セメントの練習しかしてなくてプロレスの試合の形になるのにそうとう悩んだこと、ドロップキックで先輩の畑浩和さんの骨を折った時はほぼ全選手にダメ出しをくらうなか、UWFより新日本プロレスのリングに戻った前田日明だけは自身のクラッシャーと呼ばれた若手時代が頭にあったのか励ましてくれ好印象を持ったこと。その後3年500試合もこなすと打点や威力も調節できるようになったと語る。
15歳デビューの船木という事で話題性もあってか16,17、18歳の誕生日は毎年、東京スポーツで祝ってもらい記事にされていたとのこと。
前田日明が新日本プロレスを解雇されたあと、猪木さんの考えではドン・中矢ニールセンとの第2戦の対戦候補に内定し、やる気があったが別の考えでは海外遠征をさせよう、それも体のごつい大先輩のあのマサ斎藤さんより直々に申せられたとあっては思わず「はい、わかりました」と返事をしてしまい、2週間後にはヨーロッパ遠征(ドイツ、イギリス)とあいなった。
新日本プロレスから心が離れた理由は暴動を3回も経験したのと、マシン軍団や海賊男が何よりも嫌で仕方がなかった。
UWFは週刊プロレスなどをこちらに送ってもらって隣の芝生はよりよく見えるかのごとく映ったものの、移籍が認められるとそれが思い過ごしのところもあって、プロレスの技でも効果的なものは使用してもいいかと思ったが、技が制限され窮屈に感じたものだった。
その後、藤原組を経てパンクラスの立ち上げは他と同じことをしてもUWFの諸先輩方にネームバリューでも勝てない。自らのしたかった技を受けないプロレス、旗揚げ戦は全5試合15分以内で収まり秒殺と呼ばれ話題となり、結果的にそれが禁断の扉をこじあげ1993年のいわゆるK-1、UFCと並んでシュート格闘技革命の先鞭をつけることになった。
メインのシャムロック戦ではこれでは余りにも短すぎると(従来のプロレス試合思考が)頭をよぎったのかその隙を突かれて負けてしまった。
自身が選ぶ名勝負にはバス・ルッテン戦(1996.9.7東京ベイNKホール)、そしてヒクソングレイシー戦(2000.5.26東京ドーム)、勉強になったという点では全日本キックの大会でのモーリス・スミス戦(1993.11.27東京ベイNKホール)の勝負を挙げた。
ヒクソン戦は高田(延彦)さんが2度の敗戦で次に自分に話が来るなとは思った。スポンサーにはパチンコ&パチスロ・メーカー会社のサニーさんがお金をいくら使ってもいいとなったので2億円を投入。引退表明は負けイコール死!
髙田さんが2回試合をしたというのと同じことはさすがにできない。なおヒクソンに勝ったらUFCに進出するという夢があった。
引退後、2003年までは復帰報道が常にあった。
ヒーローズの解説、K-1ダイナマイト参戦、全日本プロレス、W-1、フリー(禁断の大仁田厚の対戦も実現)に。自身の独断では「日本人最強説、藤田和之だと思う」とのこと。
佐山さんとの接点は『真説タイガーマスク』というDVD映画出演がきっかけで演技指導もしていただいた。それとリアルジャパンプロレスの参戦。
ゲスト佐山サトルいよいよ登場