[ファイトクラブ]東西冷戦の犠牲者となった幻の金メダリスト、谷津嘉章!

[週刊ファイト3月1日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼東西冷戦の犠牲者となった幻の金メダリスト、谷津嘉章!
 by 安威川敏樹
・新日の論理に潰された、谷津の悲惨な国内デビュー戦
・モスクワ・オリンピックのボイコットで幻の金メダリストに
・デビュー前からプロレスに幻滅
・6年のブランクを経て、アマレス全日本選手権で優勝
・運命に翻弄されたプロ・アマレスラー


 現在、韓国の平昌で行われている冬季オリンピックに日本は沸き返っている。男子フィギュア・スケートでは羽生結弦が2大会連続の金メダル、女子スピード・スケートの小平奈緒が500mで金メダルに輝くなど、五輪狂想曲はしばらく続きそうだ。

 かつて、作家の村松友視氏は自著『私、プロレスの味方です(角川文庫)』で、
「オリンピックは権威があってプロレスは権威どころか根拠もない」
ということが世間ではルール化されている、と書いていた。1980年前後のことである。

 つまり、オリンピックの対極にあるスポーツがプロレスというわけだ。ところが、プロレスラーの中で堂々と(?)オリンピックを名乗ったコンビがあった。
 ジャンボ鶴田&谷津嘉章の『五輪コンビ』である。

 ジャンボ鶴田は1972年のミュンヘン・オリンピック、谷津嘉章は1976年のモントリオール・オリンピックにレスリングの日本代表として出場した。鶴田はグレコローマン・スタイル、谷津はフリー・スタイルという違いはあるが、同じレスリングの日本代表としてオリンピックに出場したことを誇りに思っていたのだろう。
 村松友視氏の説からすれば、プロレスとは正反対のスポーツ・イベントを名に冠したタッグ・チームだった。そのため、筆者には何か違和感があったものである。

▼谷津嘉章(前)とジャンボ鶴田(後)の五輪コンビ。ジャンパーの背中には五輪の刺繍

YouTubeキャプチャー画像より https://www.youtube.com/watch?v=zRNHw1ygTso

 鶴田と谷津がタッグを組む前は、両者は敵対関係にあった。谷津は、新日本プロレスから派生したジャパンプロレスの一員として全日本プロレスに乗り込み、鶴田ら全日本軍と抗争を繰り広げていた。
 この頃の谷津は、やはりレスリングでオリンピック出場経験のある長州力とタッグを組んでいたが、こちらの方はなぜか五輪コンビとは呼ばれなかった。維新軍のイメージが強かったからだろうか。

新日の論理に潰された、谷津の悲惨な国内デビュー戦

 アマレスでの輝かしい実績を引っ提げて、谷津嘉章は新日本プロレスに入門した。1980年のことである。
 エース候補生として渡米した谷津は、デビュー戦をマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)で行うという破格の扱いを受けた。谷津は半年間、WWF(現:WWE)でサーキットし、プロとしての技を磨く。
 そしていよいよ、日本国内でのデビュー戦となった。まさしく鳴り物入りの超大型新人である。

 1981年6月24日、場所は東京・蔵前国技館。谷津はアントニオ猪木とタッグを組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー&スタン・ハンセンの最強コンビとの対決。ここでも破格の扱いだった。
 ブッチャーは全日本プロレスから引き抜かれてこの日が新日本デビュー戦、ハンセンは人気№1のエース外国人である。
 アマレスの実績充分、大型新人の谷津が外人組にどこまで食い下がれるか、あるいは大金星を挙げるのか、そこが焦点となった。

 ところが始まってみれば、谷津に対するセール(技を受けて、相手を引き立てること)は一切なし。ブッチャーとハンセンは徹底的に谷津をいたぶった。
 3本勝負だったが、1本目にハンセンのウエスタン・ラリアートでピン・フォールを奪われた谷津は戦闘不能状態に陥る。2本目も外人組は谷津を反則でフルボッコにして反則負け。3本目はエキサイトした猪木が反則を取られて外人組が2-1の勝利となったが、2本目以降は試合にならなかった。

 こうして谷津の売り出しには大失敗したが、新日本プロレスとすれば大成功だった。ブッチャーとハンセンの凄みを引き出すことができたし、何よりも『過激な新日本プロレス』を世に知らしめることになったのだ。
 アマレスの王者と言ってもプロレスで通用するほど甘くはない、特に新日本プロレスではアマの実績は何の役にも立たない、というイメージを植え付けることに成功したのである。

 ゴリゴリのプロレス・ファン、というより新日信者の、タレント兼参議院議員でWWF常任理事だった野末陳平氏は自著『プロレスの裏知りたい(恒文社)』で、プロレスが八百長ではないという証拠として、この谷津嘉章デビュー戦を挙げていた。プロレスが八百長なら、谷津にもっと花を持たせるはずだ、と。
 さらに「もう一つの団体だったら、負けさせはしなかったはずだ」と暗に全日本プロレスを攻撃していた。つまり新日本プロレスは真剣勝負で、全日本プロレスは八百長だという主張である。

 野末陳平氏は同書で、
「もし打ち合わせ通りに勝ったり負けたりするのであれば、(レスラーは)バカバカしくてプロレスなんぞ、やってられるか」
と書いて『プロレス=八百長(ショー)』説を否定していたが、残念ながらプロレスラーは毎試合、野末陳平氏のいう『バカバカしい』ことをやっていたのである。今のプロレス・ファンは信じられないだろうが、当時のファン(特に新日信者)には、こういう論理がまかり通っていたのだ。

 谷津がデビュー戦で血ダルマになったおかげで、プロレスはショーや八百長ではないという証明(にもなっていないが)ができたし、全日本プロレスとの差別化を図れたので、ますます『過激な新日本プロレス』として新日信者を増やすことに成功したのである。
 谷津にとってはいい迷惑だっただろうが。

 84年7月4日新日本プロレス

モスクワ・オリンピックのボイコットで幻の金メダリストに

 時計の針を、谷津の新日入団前に戻す。弱冠20歳で、1976年のミュンヘン・オリンピックに出場した谷津嘉章は、その後もレスリングの実績を積んで、1980年のモスクワ・オリンピックの日本代表に選ばれた。
 スポーツ界にタラレバは禁句だが、谷津がもしモスクワ・オリンピックに出場していれば、レスリング重量級で日本人として初の金メダルは間違いなしとさえ言われていたのである。

 しかし、当時は東西冷戦の真っ只中。ちょうどその頃、ソビエト連邦(現:ロシア)のアフガニスタン侵攻があって、ソ連と敵対するアメリカはモスクワ・オリンピックをボイコット。もちろんアメリカに追随する日本もモスクワ・オリンピックの不参加を表明した。
 こうして、谷津嘉章の金メダルも幻となったのである。

 もし、このときに日本がモスクワ・オリンピックに参加して谷津が金メダルを獲っていたら、谷津の人生は全く違ったものになっていただろう。
 谷津がモントリオール・オリンピックに参加したときの成績は8位。今や死語になっているとはいえ『参加することに意義がある』というのがオリンピック精神だが、実際には『参加するだけ』と『メダル獲得』では雲泥の差がある。ましてや金メダルとなると、その差は比べようもない。

 柔道の金メダリスト、野村忠宏の知り合いから聞いた話だが、野村が初めてオリンピックに出場したとき(アトランタ)、野村は全く無名だった。日本の柔道選手団がアトランタへ向かうとき、マスコミのお目当ては『ヤワラちゃん』こと田村亮子(現:谷亮子)。
 マスコミは田村亮子に殺到し、野村は記者に「邪魔だ、どけ!」と言われたという。
 ところが野村は金メダルを獲得、帰国した際にはマスコミから神様扱いされた。まさしく日本マスコミの醜態そのものだが、野村を邪魔者扱いしていた記者は、そのことは全く覚えていないだろう。
 たとえオリンピック選手でも、無名でメダルも獲れないと歯牙にもかけられないのが現実だ。


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