[ファイトクラブ]永遠のすれ違い 「天龍VS前田」の浪漫 ~その1 歴史検証編~

[週刊ファイト11月30日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼永遠のすれ違い 「天龍VS前田」の浪漫 ~その1 歴史検証編~
 by 立嶋博
・あの時、馬場は手招きしていた!十六文とニールキックの夢
・U戦士は手を差し伸べた「恐竜」に背を向けた……SWSの光芒
・一瞬の行き違い!“リングス”という名のプロレスの反物質
・後半に続く!次号、並行宇宙雄飛編!


 最近の天龍源一郎は折に触れて、「現役時代に前田日明と一度も闘えなかったのが心残り」と発言し、オールド・ファンの幻想を掻き立てている。
 故・ジャンボ鶴田が引退会見で全く同じことを言っていたのを見ても、彼ら全日系から最も遠い系統樹に地位を占めた前田日明という希少種レスラーは、彼ら自身の幻想をも掻き立てる存在であったことが窺える。

 殊に天龍にしてみれば、全日本、SWS、WAR、新日本、アメリカマットなどを渡り歩く過程において、ジャイアント馬場からオカダ・カズチカに至るまでのほとんどの日本人ヘビー級レスラーと接点を持ったというのに、前田にだけはどういうわけか縁がなかった、という思いがあろうから、冒頭の言葉はファンへのリップサービスではなく、かなりの部分まで本音なのだろうと思う。

▼『LIVE FOR TODAY-天龍源一郎-』ゲストとのトークバトル

『LIVE FOR TODAY-天龍源一郎-』ゲストとのトークバトル1week(4/29-5/5)ユナイテッド・シネマ アクアシティお台場

 前田は決して「話」が分からない男ではない。場数も十分に踏んでいる。
 しかしビジネスの相手として扱いやすいとは言えず、新日本でもUWFでもリングスでも、大小のトラブルを起こしている。メディアに対して雄弁であることも、経営的視点からは警戒しなければならない。
 スタイル的にも特殊で、安直なアングルではフィットしないので、単調にならぬよう北を向かせぬよう、腫物を扱う緊張感のもとで工夫を凝らして仕掛けていかないと、周囲が損をさせられる可能性がある。

 しかしそうした不安を措いてもなお、公称192cmの見栄えがする肉体を持ち、常に攻撃的で客受けがし、ゴッチ仕込みの技や空手、喧嘩術も多彩、全盛期には「新・格闘王」とまで謳われた男と真っ向勝負して自分の度胸と腕前を確認してみたい、という欲求が生ずるのもレスラーとして当然だ。
 天龍のようにプロモーションを率いてきた人間ならば、レスリング・ビジネスの上で、つまりブッカー、マッチメイカーとして彼と対峙してみたい、という思いもあるかもしれない。

「『あの』前田日明を俺がコントロールしてみたかった」

「俺と前田の力でアリーナを満杯にしてみたかった」

「前田は俺となら人生最高の試合をやれたのではないか」

「心技体が充実していたあの頃、前田との接点が得られていたら、俺のレスリングにも新たな伸びしろが生まれていたのではないか」。

 それは見果てぬ夢かも知れない。
 現実には猪木にも、坂口にもできなかったことだ。
 たとえ条件が都合よく整っていたとしても、それは困難なチャレンジだったろう。

 しかし、神取忍との妙ちきりんな対決にすら一握の美点を見出し、自らのエネルギーに変換してきた天龍のことである。
 異端の男と触れ合う時、如何なる化学反応が現出するものか。
 古臭い「プロレス者」の好奇心は、やはり尽きない。

 あの時、馬場は手招きしていた!十六文とニールキックの夢


▼魂暴風 最強神話”流転”篇

魂暴風 最強神話”流転”篇

 それにしても現役時代の天龍と前田が、どこかのマットで邂逅を果たし得た可能性はなかったのであろうか。
 改めて二人のマット史を見直してみると、遭遇のチャンスは一度ならずあったのではないかと思えてくる。

 一つは第一次UWF崩壊時の前田の全日本移籍である。
 経営難に陥っていた第一次UWFは、浦田昇社長らが駆け回って、全日本もしくは新日本との提携を行って急場を凌ごうと画策していた。
 全日本プロレスを率いるジャイアント馬場は、この打診を受け入れる姿勢を示したが、長州力らジャパンプロレス勢、ラッシャー木村ら国際血盟軍らの参戦で日本人選手が過剰気味になっていたことから、UWF所属選手全員は引き受けられない、申し訳ないが前田と高田伸彦のみとさせてくれ、と返答した。
 あくまで選手全員の救済を求めていた前田はやむなくこれを辞退し、新日本にUターンする道を選択することになる。

 前田はこの時の馬場の厚情への感謝を後年のインタビュー等でたびたび語っている。意外だが、馬場や全日本のプロレスへのアレルギーのようなものは、当時の彼にはそれほどなかったのかもしれない。無論、背に腹は代えられない事情もあっただろうが。

 筆者は、純プロレスラーとしての前田が最も輝いたのは、その後の新日本との一連の対抗戦(ドン・ナカヤ・ニールセン戦を含む)の時期だったと個人的に確信するものである。
 対抗戦用のスタイルは前田が真に目指したプロレスの姿ではなかったかもしれないが、それが20代中盤を迎えてコンディションが最も安定していた数年間に当たっていたことは疑いなく、藤波、越中、マードック、上田など、対戦相手にも割と恵まれていたと思えるからである。
 だから、全く同じ時期に全日本に参戦して、鶴田、馬場、天龍、カブキ、三沢タイガー、ハンセン、ウォリアーズらと抗争していたらどのような試合が生まれていたかについて、大いに興味をそそられるのである。

 ただし、たとえ前田の全日本移籍が実現していたとしても、馬場はそこまで外様を優遇したマッチメイクは行わなかったのではないかとも思える(これについては後述)。しかしいずれにしても、天龍との一騎打ち、高田とのタッグによる最強タッグ参戦は行われたであろう。

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