[週刊ファイト11月16日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼力道山との初対決から54年…祝・デストロイヤーが旭日双光章受賞!
by 井上譲二
・“あの試合はシュートだった”という魔王の衝撃発言を探る!!
・昔のプロレスには真剣勝負もあったのか?
・“ケツ決め”は厳守してもプライドの問題で内容は譲れない
・リック・フレアーに貸したカネが返ってこない!?
・ヤクルト・スワローズ至宝チャーリー・マニエルの怪物ぶりに魔王も仰天!
・交通違反も許された超有名人デストロイヤー
力道山没後50年となる2013年には、各メディアによって改めてクローズアップされた外国人レスラーが、故人にとって最強のライバルだった“魔王” ザ・デストロイヤーだ。そして2017年文化の日、旭日双光章受賞の栄誉があり、再びデストロイヤーの名前が民放のキー局などで取り上げられた。なぜかNHKは他の受賞者に時間を割いてしまったが、週刊ファイトには初来日時から始まる貴重写真の数々や、直接に取材した記者を多数抱えている。その2013年には、力道山50周年に合わせて、好評のWe Rememberシリーズ第2弾をザ・デストロイヤー特集にして発売することを発表していながら、週刊ジャーナルの毎週の締め切りに追われて編纂作業が延期のままだった。ところが、手元永久保存が可能な電子書籍(PDF)に切り替わって、いよいよ出そうかという矢先の受賞ニュースである。そこで本誌先行収録として、未発表原稿を加えた井上譲二記者の考察から発表する運びとなった。
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追悼:ザ・デストロイヤー
その両者のシングルマッチは1963年に3回行われているが、かつてデストロイヤーは初対決となった同年5・24東京体育館の試合(WWA世 界ヘビー級戦)について「シュートマッチだった」と語ったことがある。彼はどういうつもりでそう言ったのか?
もう30年以上前のことだが、私がデストロイヤーが現在も住んでいるニューヨーク州アクロンの自宅を訪れたとき、彼は力道山との初対決について 「あの試合はシュートだった」と告白している。
しかし、それが事実なら力道山vs.木村政彦戦同様に先輩記者らによって語り継がれているはずだが、私の上司だった井上義啓氏からもそういう話は聞かされていない。
1963年初来日時の羽田空港にて
5月17日ワールドリーグ決勝、力道山vs.コワルスキー戦に花束を持ってリングイン
コワルスキーが小声で「引っぱたけ」コールしたのでその通りにしたこともインパクトを生んだ。
昭和38年(1963年)と言えば、私が11歳のとき。デストロイヤーはどうせバレないだろうと考えて作り話をしたのか? と疑ってしまったが、 のちに「それ(シュート)に近いもの凄い死闘だった」と教えてくれる記者が現れた。日刊スポーツのプロレス担当記者として両雄の初対決を取材した鈴木庄一(故人)である。鈴木氏は私にこう話してくれた。
「井上くん、デストロイヤーがキミに言ったことは、ある意味、事実だよ。試合後、2人とも足腰が立たないくらいのダメージを負っていたからね。足4の字の攻防によって2人の足はドス黒く腫れ上がっていたし、デストロイヤーの前歯も吹っ飛んでなかった。翌日、彼は松葉杖をつきながら、痛々しい姿で羽田空港から帰国したんだよ」