ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』③桑田真澄の早稲田大学院入学と「パイルドライバー!」面接回答

29年越しの思いを貫き、2015年4月ついに早稲田大学に入学しました。
思い起こせば、それまでの29年間は挫折と妥協の繰り返しでした。

「物事がうまくいかないのは、全て早稲田大学に落ちたせいだ!」

何でもかんでも人のせい、物のせいにしていました。とにかく毎日毎日いじけてばかりいたのです。今思うと、恥ずかしい限りです。

そんなオイラに、ある時大きな転機が訪れたのです。

「2009年1月、桑田真澄 早稲田大学大学院入学!」

このニュースを知って、オイラは頭を思い切りパイプ椅子…いや、金槌で殴られたような気がしました(笑)。
元読売ジャイアンツの桑田真澄氏が、なんと早稲田の大学院に進学したというのです!
アンチ巨人で知られるオイラですが、桑田氏とは同い年ということもあり、ずっと気になる存在でした。
その桑田氏がよりによって早稲田に?
ここで、オイラの頭の中にはたくさんの「?」マークが踊りました。
桑田氏は、高校卒業と同時に巨人に入団しました。つまり大学には行ってません。大学卒業資格もないのに、どうして大学院に入ることができたんだろう…?
早稲田大学に未練たらたらだったオイラは、その日から桑田氏に最大級のジェラシーを抱くようになりました。

「高卒の桑田が入れたんだから、オイラにもチャンスがあるかも…。たとえ何年掛かってもいい、何歳になってもいい。どんな手段を使ってでも絶対に早稲田に入るんだ!」

いつしか、早稲田大学に入ることがオイラのライフワークになっていました。
気が付くと、ありとあらゆる手段を使って大学院について調べ始めていました。
大学のホームページはもちろん、何十年ぶりかで受験生の愛読書、教学社の通称”赤本”を立ち読みしたりもしました。
すると、大学院にもいろいろなコースや種類があることを知りました。しかし次の瞬間、オイラは愕然としたのです。
桑田氏は、「個別の入学審査」を経て進学したことが分かったのです。
そりゃあ、桑田氏ほど有名人で、プロ野球界に大きな功績を残した人物であれば、”特別枠”があっても頷けます。
ここでもオイラの期待は水の泡と化してしまったのです。

ところが、これで完全にオイラの希望が消えてしまったわけではありませんでした。
徹底的に入試について調べた結果、30年前とは大学入試のシステムも大きく変化していることに気付いたのです。
「AO入試」「自己推薦」「センター試験併願」etc…。
センター試験がまだ”共通一次試験”と呼ばれていた頃の受験生だったオイラは、まるで”入試浦島太郎”状態です。
そんな中、早稲田大学の人間科学部に「社会人入学」のシステムがあることを知ったのです!
試験内容は、一次試験となる論文と二次試験の面接のみ。
今さら英単語を覚えたり、日本史の年号を覚えるなんて、アラフィフのオイラには絶対に無理!
だけど、論文と面接だったら何とかなるのではないか?

「これしかない!」

こうして、執念にも似たオイラの早稲田大学再チャレンジはスタートしました。止まっていた時計が、27年ぶりに動き出したのです!

しかし、現実はそんなに甘いものではありませんでした。私立大学の学費は30年前とは比べ物にならないほど値上がりしていたのです!
理系と比べ比較的安い文系でさえ、1年間の授業料は100万円を優に超えてしまいます。
仮に合格したとしても、学費を払い続ける能力は今のオイラにはありません。ここは一旦現実を見つめ、先ずはお金を貯めることから取り組みました。
二年ほどコツコツと貯金をし、ようやく働きながら卒業までの学費を支払っていく目途がつきました。
さあ、本格的にリベンジの始まりです!

願書を取り寄せるのも27年ぶり。封筒を開ける手がブルブルと震えます。
証明写真を撮りに行ったり、必要書類を揃えたり…。
27年前、2万5千円だった受験料は3万5千円まで跳ね上がっていました。こんな心配、27年前は皆無でした。黙っていても親が準備してくれたからです。
改めて両親に感謝すると同時に、今回の受験は誰の力も借りず、誰にも迷惑をかけず、100%自分の力だけで成し遂げようと心に誓いました。たとえ落ちても全責任は自分に有り。そのためにも、受験することは誰にも内緒でした。

いよいよ、一次試験となる論文の提出日が近づきました。詳しい内容はあまり覚えていませんが、とにかくありったけの”早稲田愛”を書いた記憶があります。
もちろん、論文のテーマとはかけ離れていたような気がしますが、オイラの素直な気持ちを伝えるにはこれしかなかったのです。
チャンスと思えることもありました。それは、論文が”手書き”ということです。
実は、オイラは幼少の頃から書道を習っており、字を綺麗に書くことには自信がありました。自分で言うのもなんですが、只者ではないくらい綺麗な字を書きます(笑)。
当然、どんなに美しい字で論文を書いても合否には一切関係ないことは百も承知です。しかし、人間が読み、人間が採点するわけですから、ミミズが這ったような字よりも美しい字の方がしっかり読んでやろうという気持ちになるのは当然です。
繰り返しますが、字の上手い下手は合否には関係ありませんが、そこまでポジティブに物事を捉えることができるくらい、この時のオイラの精神状態はMAXだったのだと思います。

絶体絶命!面接試験でまさかのプロレス質問?

綺麗な字が功を奏したわけではありませんが、一次試験は見事にパス!二次試験に進むことになりました。
二次試験の面接は、人間科学部のお膝元である埼玉県の所沢キャンパスで行われます。
この年齢(当時47歳)になると、面接官になる機会はあれど、面接を受ける側に立つことは滅多にありません。
面接は、3対1で行われます。つまり、面接官3人に対し受験生はオイラ一人というシュチュエーションです。
教室の外にある廊下で、自分の順番を待ちます。
すでに手の平には汗をかきまくり、今にも心臓が口から出そうなくらい緊張が高まってきました。

そして、ついにオイラの番がやってきました。
ノックをして、教室に入り、受験番号と名前を言って、「どうぞ」と言われてから椅子に座ります。
ここまでは昨夜練習した通りにできました(笑)。
面接官の先生は、おじいちゃん先生が二人とオイラと同じくらいの年齢に見える比較的若い先生が一人です。
時間は一人当たり15分程度。次々と質問が飛んできます。

Q.『どうして早稲田を選んだのですか?他の大学ではいけなかったのですか?』

※「そんなの早稲田が好きで好きでたまらないからに決まってるだろう!」と思いながらもグッとこらえます。

Q.『人間科学部で学びたいことは何ですか?』

※「本当は、教育学部に入りたかったのですが、社会人入試が人間科学部しかなかったので仕方なく受験しました。」なんて言えるわけありません。

緊張で気の利いた答えがなかなか出ないまま刻々と時間だけが過ぎていきます。
「合否なんてどうでもいいから早く終わってくれ!」これが正直な気持ちです。

質問も出尽くし、そろそろ終了の時間かなという頃、三人の面接官が目配せをし、『もう(質問は)よろしいですか?』と確認をします。
「やっと解放される」と思った次の瞬間、最も若い面接官が、

『最後にもう一つだけよろしいですか?』

万事休す!もうオイラの”引き出し”は残っていません。
「もう、どうにでもなれ!」と覚悟を決めて”最後の質問”を聞きました。

『得意技は何ですか?』

一瞬耳を疑いましたが、確かにそう聞こえました。
咄嗟にオイラは、
「ジャンピングパイルドライバーです!」と答えました。

受験書類には、現在の職業を書く欄もあるので、面接官はオイラがプロレスラーであることも知っているわけです。
だからといって、この質問には本当に驚きました。
大学入試史上、面接試験でプロレスの得意技を聞かれた受験生は、おそらくオイラ一人でしょう(笑)!
40代と思しき面接官は、やはりオイラと同じくプロレスを見て育った世代なのでしょうね。
オイラが答えるのと同時に場内は爆笑の渦となり、重苦しかった空気が一気に和んだのです。

「しめた!」
根拠はありませんが、何だかこれで受かったんじゃないかなという気になりました。

数日後、早稲田大学から一通の封筒が届きました。
中には”合格通知”が!
”例の質問”が勝因だったか否かは永遠の謎ですが、間違いなくあの瞬間会場の空気を変えてくれたK先生には感謝してもしきれません。
翌日、合格通知を持ってオイラは早稲田キャンパスへ向かいました。
早稲田大学の創設者、大隈重信先生に合格のお礼を言うためです。

随分と遠回りをしてしまいましたが、ようやく大隈先生の眼下の元学ぶ機会を得られました。本当にありがとうございます。

かくして、オイラは長年の夢を叶えたのです!


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