日米格闘技史百年戦争 栄光なき天才たち西郷 植芝 前田光世サンテル 2017-02-16 01:562020-08-26 14:09 山口敏太郎事務所, 著者別:復刊本_写真集_教材 ツイート 文明開化が進み日本の柔術界にも改革の嵐が吹き荒れていた。柔術のスポーツ化を推し進める講道館は、鬼才・西郷四郎を先頭に、他流派を制圧していく。幻の必殺技・やまあらしを武器に勝ち進む西郷の末路は?西郷の同門で大東流出身の植芝盛平は、数々の修羅場を越えることで、伝説的な逸話を残している。発射される弾丸の弾道をよみ、戦車を気合でひっくり返す!植芝盛平のとんでも伝説の数々がここに!講道館を飛び出した前田光世は、世界中で様々な格闘技と戦い、勝ち抜いていく。そして終焉の地・ブラジルで彼はグレイシー柔術の種をまく。 【抜粋】 ☆ 明治の格闘技大戦争〜「姿三四郎」のモデルとは? 西郷四郎の気性の激しさは有名で、稽古帰りに、毎日待ち伏せをしている者と果たし合いをしていたとも言われ、大相撲の力士と諍いとなり、力士を投げてしまい大問題となった事もあった。この一件が原因か不明だが、西郷は講道館を去っている。 その講道館が避けて通った最強の男こそが、楊心流四天王の一人である大竹森吉その人であった。大竹の所属した楊心流・戸塚柔術は実践主義であり、乱取り稽古主体の流派でもあり、実戦には滅法強かったとされる。特に大竹の関節技は見事であり、投げ技を鋭角に落す為、受け身がとれず死者や怪我人が続出したという。 ☆ 飛んでくる弾丸の軌道をよむ男・植芝盛平 山道を歩いてのぼる時に、植芝盛平は弟子に背中を押さしていた。ある時、弟子がいたづら気分で手を話したところ、背中が斜めになったままのぼっていったという。(冗談だと信じたい) 戦争中は上空を飛ぶ戦闘機を”気”でゆらし、戦車の下に潜り込んで、気合いと共にひっくり返すことも可能であった。 ☆ 講道館三羽烏・前田光世〜コンデ・コマの由来 前田光世がアメリカから東京の薄田斬雲に送った手紙の中でアメリカンプロレスの攻略法を述べている。 巨漢レスラーとの戦いでは、効果的な絞めや関節技であっても、巧みな西洋レスラーに出会うと反撃され容易ではないので、必ず後に廻って絞めではなく首を抱くのが一番であると記載されている。 ☆ プロレスラー アド・サンテルが日本上陸 このアド・サンテルが曲者であった。元々シューター(フッカーという呼称がアメリカでは正式かもしれない)としてアメプロ内部では有名であった。その証拠にあの伝説の試合である1911年のフランク・ゴッチ対ジョージ・ハッケンシュミットの世界戦の時、ハッケンシュミットの参謀を務めている。 また厄介な事に当時米国内では柔術ブームが起こり、1910年代から伊藤徳五郎、タロー・三宅、太田節三とプロレスラーの異種格闘技が開戦していたのだ。つまりアメリカマット界は柔術をかなり研究しているが、日本柔道界はプロレスに対しては何の対策も持ってはいない状態であった。 注意)2003年6月25日アートブック本の森「アメリカンプロレス 中級バイブル」(絶版)の一部に加筆、修正を加えたものです。 日米格闘技史百年戦争 栄光なき天才たち西郷 植芝 前田光世サンテル商品コード yamaguchib003価格 315 円 ウィッシュリストに追加する » 投稿ナビゲーション 宴の痕-ムエタイの深層-「ムエタイ1556キロ 」ある極悪レスラーの懺悔 親父の死、大相撲入門、プロレスとの出会い