[週刊ファイト2月9日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
ギリシャの15歳クリスティーナ Photo by シン上田
前回に続き、『SEI☆ZA』のお話。
格闘技イベントの一番の売りは何か? それを一言で表すならば「最強」。プロレスも格闘技も「最強」を競い合っているイメージで、お客は集まり、興行自体を巨大化していった。だから、一時「最強」という言葉は、いろんな団体が使っていたし、実際に力道山やアントニオ猪木、UWF、K-1やPRIDEは、「最強」のイメージで業界のトップに君臨した。
K-1は「立ち技世界最強トーナメント」を決める大会のイメージがあったから支持をうけたし、PRIDEが「60億分の1の男」を決める大会と言っても納得できた。格闘技界でトップに立つには、この「最強」のイメージは不可欠だったのだ。
格闘技に限らず、スポーツはそもそも「最強」、つまりジャンルの頂点をめざす舞台が最高峰だと言われている。簡単にいうと「オリンピック」。テレビが一番扱うのもオリンピック。ということは「オリンピック」以外の全ての大会は、オリンピックへの予選となり、実は最強を争っていない大会、もしくは「日本大会」「大学大会」「高校大会」など、限定した最強決定戦にすぎない。
ここは極めて重要だ。今、日本の団体で「最強」を謳い文句にしている団体は少ない。おそらくイメージ的にも、UFCを除いては「最強」という言葉を使っても笑われるだけだろう。だったら、本当に格闘技界のトップに君臨するには、大会の規模、システム、選手の質でUFCを越えなければならない。それしか「最強」のイメージを取り戻すことはできない。その「最強」のイメージを取り戻さない限り、真の格闘技復活はない。
UFCに勝たなければ、他の団体は全て亜流、もしくは予選、マイナーな大会となってしまう。しかし、格闘技団体としてはそれを素直に認めたくない。つまり「最強」を捨てることで、売りにするものは何か? ということが明確に打ち出せないのだ。その中途半端さが一番良くない。例えば総合格闘技のイベントが、「ウチはUFCの登竜門」と言ってしまえば、それはそれでスッキリするし、分かりやすい。そうではなく、「ウチはUFCとは違う」というならば、それがハッキリと分かるコンセプトを打ち出さなければならない。
私が『巌流島』という新しいコンセプトを打ち出したのは、そうした一面もある。別の「最強」を模索することで、UFCからの脱却を図ったとも言える。一部、誤解している人もいるが、私は総合格闘技やUFCが嫌いで、MMAというものを否定しているのではない。そもそもグレイシー柔術が出てきて、UFCが誕生した時、格闘技マスコミでさえ批判的だったものを誰よりも支持し、応援したのは『格闘技通信』編集長時代の私だった。そうでしょ?
でもUFCがある限り、別の最強を競う舞台を作らなければ、どうしても比較されてしまう。それが「武道」というコンセプトであり、異種格闘技戦=他流試合だった。ところが、SEI☆ZAを見て驚いたのは、巌流島のように別の方法論を見せているのではなく、「最強なんて競ってないよ」と最初から胸を張って、堂々としていることだ。