[ファイトクラブ]『週刊ファイト』メモリアル第5回 I編集長がプロレス記者を辞め、 ボウリング場で働き始めたワケ

[週刊ファイト10月20日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

 I編集長こと井上義啓氏が他界したのは、自らの人生を捧げたといっても過言でない『週刊ファイト』が休刊に追い込まれた2006年。今年12月で丸10年になる。
 享年72。ほかの仕事に就いていたら、少なくともあと10年、彼の寿命は長かったと思う。実は1970年代のある時期に転職しているのだが、新大阪新聞社側の要請で数ヶ月後に『ファイト』に出戻っている。知られざるエピソードのひとつとしてその経緯を披露しよう。
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by 井上譲二
 私が外部スタッフの立場で初めて『週刊ファイト』の仕事をしたのは学生時代の1972年。自費でイギリスに行き、英マットの原稿と写真を買ってもらった。
 その頃の『ファイト』はプロレスをメインに編集された総合レジャー紙。プロ野球やキックボクシング、ボウリング、競馬、日活ポルノなどの記事も掲載されていたが、それらは依頼原稿か新大阪新聞の芸能担当記者の協力によって賄われていた。
 『ファイト』大阪本社のプロレス担当はI編集長、K記者、Sカメラマンの3人。プロレス面はせいぜい5~6ページだったため、前記のスタッフにとってそれほどハードな仕事ではなく、I編集長は神戸市内の実家から大阪市西区にある会社まで電車通勤していた、
 I編集長は超が付くお人好しで、部下に対してもまったく威張らない。一方、KやSも腰の低い素直そうな青年で、一見、3人の関係は良好に見えた。
 ところが、翌73年、K&Sによる内部告発があって濡れ衣を着せられたI編集長は会社を辞めてしまう。

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