「ちょっと一息ブレークタイム」昭和プロレス望郷の旅 byプロレス美術館:レアチケット編

かつて「突然卍固め!」ってありましたよね。京都のプロレス美術館は予告なしに「突然休館!」してしまい、本当に失礼いたしました。
また完全復活いたしました。ですが、最近お宝の発掘に苦労しております。お宝情報やちょっとした珍品グッズがありましたら。ぜひ当館にご連絡ください。(お宝情報はこちらから)
さて、休館もあって、この「ちょっと一息・・・」もお久しぶりです。
この間、プロレスと出会った昭和50年代の雑誌を懐かしくめくっていると、数々の思い出が脳裏に蘇ってきました。
この頃はプロレス美術館の構想などなく、とにかく生観戦の迫力に圧倒されていた時代でした。
思えば、観戦に出かけると、必ずコレクションしていたアイテムが4つあった。
①当日の対戦カードがスタンプされたパンフレット、
②大会告知用の興行用ポスター
③入場後の半券と指定席を購入した際は席に貼り付けられた座席番号を示す札も一緒に持ち帰った
④翌日の東京スポーツ
この4点のなかで、もっともコレクションとして重要視していたのが、興行用ポスターである。どうしてもほしいデザインの場合、試合終了後、会場付近に貼り付けられたポスターを剥がすために、急いで退場したこともあった。
だが本来は、会場を出るまでに、もうひとつの「ある戦い」が残されていた。これが大変気がかりな半面、心地よい緊張感を伴っていたのです。
実は興行用のポスター同等にコレクションとして力を注いでいたのが、半券収集でありました。
お小遣いの少ない中学生にとって、ありがたかったのが、500円あるいは1000で購入できる小中学生限定の立見券。これは観戦に関しては、リーズナブルで大満足だったものの・・・。試合終了後、コレクションとして持ち帰るには複雑な心境だった。
ここからは大変マニアックな話で恐縮だが、立ち見券は指定席の席番が刻印されていなく、単に「小中学生」と印刷されているだけだった。
つまり、コレクションとして持ち帰りたいのは席番がスタンプされた指定席券であったのです。
さらに当日の最高グレード席が望ましかった。
そのためには、立ち見でメーンイベントまで観戦後、リングサイド席に移動、締めのマイクアピールを間近で聞き入り、興奮冷めやらぬ・・・そのとき、ボクはさっと頭のチャンネルを切り替えていた。
その周辺のVIP客の何人かは必ず自分の半券をその場で捨てて帰る人がいる。当時は子供だったこともあり、なりふりをかまわず、特別リングサイド券をかき集めたこともあった。
コレクション第一主義のモードに入ると、もう恥ずかしさなどは二の次になっていた。さらにその次のランクであるリングサイド券を捜し求めて、アリーナの後方に移動したり、時には二階席にまで足を伸ばすこともありました。
特にビッグマッチの場合、すべての席種の半券を揃えることが何ともいえぬ快感だったのです。
現代のように、ぴあ券やローソンチケットではない。
新日本プロレスの場合、地方会場の場合は各シリーズごとにデザインされたチケットで、席種によって色が違っていたものです。
そして、シリーズ中、もしくは特別興行に関係なく、大都市圏ののビッグマッチの場合はその日の興行ごとにデザインを変えており、コレクターとしては、すでに数十年後のお宝を想定していました。
その一方で全日本プロレスの半券はとにかくお粗末のひと言です。
年間すべてのシリーズで使用できるデザインベースを予め印刷したデザインベースに、シリーズ名と参加選手名と写真を、上書き印刷するシステムで、経費を最小限に抑えていることが明白だったからです。立ち見席に至っては、開催日、会場名すら印字していない、うすっぺらい紙切れでした。それだけではない。半券の切り離し部分すらない前シリーズの余り券を加工して販売すこともありました。子供心にこれほど失望した思い出はなかったものです。
コレクションしたチケットを眺め、こんなことも真剣に考えていました。どの団体のチケットも、全体は基本的にカラー色、だが個々の選手が印刷されている部分は白黒写真を使っていた。
これはデザイン上、白黒とカラーのコントラストの方が見栄えがよいからなのか。それとも単なる経費削減のためか、と子供心に悩んだものでした。
それから30年あまり・・・。思い入れの強い1枚から、開催日すら浮かばない平凡な1枚まで、在庫枚数は何枚に及んでいるのだろうか。
半券コレクションはボクにとって、プロレス美術館設立以前に、個人としてプロレス記念品愛好人生のきっかけとなったアイテムであるといっても過言ではない。
そこで、久々に半券アルバムを振り返り、改めて思い出の逸品を紹介していきたい。
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まず最初は衝撃の初観戦。それは恐るべきシーンとの出会いだった。
昭和49年6月26日大阪府立体育会館で目にしたものは、アントニオ猪木対タイガージェットシンの腕折マッチ。
初観戦の時点で立ち見券の存在自体を知らなかったために、少しでもよい席で観戦したいと思って、お小遣いをはりこんで指定席3000円のチケットを購入していた。
コレクション心も芽生えていない小学4年生。ああ持ち帰ってよかった、よかった。あれから35年。プロレスは変わってしまった。
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次に日本国内のプロレス興行史上、話題性は最高。入場料金は破格。そしてパーティー券からスパーリングまで3枚のチケットの合計額は353000円。
当時この金額を支払ったファンは何人いたのだろうか。
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これは昭和53年のサマーファイトシリーズ中の天王山。広島での2大選手権試合のチケット。この日の興行のみにデザインされたオリジナルデザインの感動した1枚。
だが、この日、これほどのビッグマッチにかかわらず、ノーテレビだった。後に記録を調べると、猪木がNWFヘビー級選手権を戦って、テレビ中継がなかったのは、このペドロ・モラレス戦のみだった。
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次は新日本プロレスの専売特許である安易な「カードの変更」によるプチ詐欺営業。意図的かどうかは別として、これほど豪華なチケットをデザインしておきながら、メーンの猪木対ボックの試合は中止。実際に行われたのは猪木対シンだった。代打選手として起用されたシンのプライドは、どれほど傷ついたのだろう。善人の中の善人タイガージェットシンは、新日本プロレスを隆盛に導いた最大の功労者である。
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全日本プロレスは年間最大のビッグシリーズでも前述したように既成のデザインベースに参加選手を印字しただけのもの。
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そんな中で、よほどこの試合が馬場家にとって大切な一日であったかを象徴する、3000試合突破記念試合。ジャンボ鶴田以下の所属選手では、このような豪華なチケットは記憶にない。
かつて鶴田が一日たりともNWA世界チャンピオンになり得なかったのは当然だったと言えよう。