美城丈二の“80’S・プロレス黄金狂時代”Act⑳「タイガーマスク」

 『美城丈二の“80’S・プロレス黄金狂時代 ~時代の風が男達を濡らしていた頃”』
  Act⑳「タイガーマスク、意思としての“異形”」
 アニメで一世を風靡した「タイガーマスク」が現実のリングに登場する。1981年、新日本マットにその勇姿を現した「タイガーマスク」は一躍、時のひととなった。時のひととなったがゆえに正体暴きが散々、当時のマスコミ紙上を賑わせたが、通のプロレスファンからは「佐山聡」の固有名はしごくあっさりと喧伝されており、その正体は通り相場でもあった。
「ライガー=山田恵一」の如く、山田恵一時代、素顔にてTVに登場しているわけでもなく、だからこそ、あしげく会場に通い詰める、通のファンでもなければその素顔までは知られてはいなかったが、「あの佐山だろう」と当時、私も仲間内で語っていたものだ。
 だが、あの当時の「タイガーマスク」以前の佐山聡、その幼げな感じ、素顔から想像される印象は穏やかな性格を思わせるものがあって、のち「ケッフェイ」などというプロレスの内部事情を告発するかのような書物を紐解く人物には思いがたい印象を受けていた(とはいっても、ご本人はそういう告発するといった感覚は皆無だった、と後年、語られてはおられる)。
 あのいまや伝説と化す、キック・ルールでのガチンコだったマーク・コステロ戦は1977年。メキシコ遠征が翌78年であり、サミー・リーとして1979年はイギリスで名を馳せており、残念ながらタイガーマスクとしてのデビュー以前は本国、日本マットではあまり目立った活躍は見せてはいない。だが、そんな時代から既に猪木らに可愛がられ、格闘技志向の強い自我意識があったことはよく知られている事実である。
 プロレスという存立概念自体に違和感を覚えつつも、カール・ゴッチ、山本小鉄、そしてアントニオ猪木のプロ意識に強烈な感化を受け、シューティング、格闘プロレス、掣圏道、掣圏真陰流、そしてリアルプロレスリングと辿る道は違えども、その軸である土壌は揺るぎが無いといった信念の強靭さを思わせる。
 昨今は「強い、総合にも勝てるプロレスラーを創造したい」と余念がなく、マスコミ紙上で謁見するインタビュー記事等では「義」「正」「死」といった日本古来の“武士道精神”に則った介錯主義を述べられたりと、その主義主張は文字通り、高邁な発想を思わせるものだ。
 恒に“10年先を行く発想”と称えられておられる通り、いまでも未来をしかと見据え邁進されておられることだろうという感慨を抱く次第ではあるが、自身の“いま在る中核”にタイガーマスク時代が存している、その「けっして当時は望んでタイガーマスクになったわけではなかった」と仰られるタイガーマスク像とも上手くご自身、向き合っておられるようで、その佇まいからひところの嫌悪感むきだしといった按配の感覚はこちら側にはあまり漂っては来ない。
 かくいう筆者も高校3年時がタイガーマスクデビュー年に当たり、その華やいだスター性に魅了されたひとりである。貪るように「ケッフェイ」も読んだりし、いまでもそこかしこで語る佐山聡氏の言説には納得させられることもしばし。往時を懐かしむことが出来る、限られた、まさしく“選ばれた”人物でもあり、またDVDで見やるタイガーマスクの勇姿には青春譜としての残像がはっきりと自身の心根、その陰影として甦ってくるかのようで、想い出と共に感慨は尽きない。
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9月18日後楽園ホール、リアルジャパンでの対ウルティモ・ドラゴン戦フィニッシュ(上)と試合後会見より
 すっくとコーナーポストの一角に立ち、一瞬間、TVライトの煌びやかな射光を受け、マントを靡(なび)かせつつ舞い降りる勇者。
 新日本マット、登場から2年と4ヶ月。
 まさしく氏こそが、80´sプロレス黄金狂時代の象徴。そんな氏を筆者も様々な有為の場所にて枚数を惜しまず書き記してきた。
 とある日、現実のマットに降り立った勇者の残像、「あのタイガーマスクの衝撃を未だに越えられないのが、のちのプロレス界の不幸なのではないのでしょうか?」と筆者宛て、熱心なプロレスファンから一通のメールが届けられた。
 (どうだろう・・・・・・?)タイガーマスク以後も新日本マットでは維新軍vsUWF軍、新日本vsUWF軍、闘魂三銃士の時代、猪木のカウントダウン等々・・・・・・様々な色を成すプロレス格闘絵巻に踊らされてきたが、果たしてタイガーマスク以後にあれほどの憧憬を抱かせるスーパースターの出現はあったのか、否か!?しばし私は思案に暮れたものだった。
 プロレスはまさしく手鏡の如し、自身の喜怒哀楽をまるで覗き見るかのようなところがある。憧れとしての象徴、「叶うことならば自身もああ、なりたい」。
 後年、多くのプロレスラーが誕生した背景にはタイガーマスクに憧れて、という動機も示す通り、文字通り“憧憬の的”としてのタイガーマスク像が存在していた。そういった意識に対し、「憧れたひとを真似たプロレスを行うからプロレス界は衰退したのだ!!」と揶揄する識者もおられるが、私はやはり無碍にそれら意識を弾劾出来ないのだ。
 私も憧れた、ただひとりの市井人。憧れた人に一歩でも二歩でも近づきたいという想念は痛いほど察せられるからだ。
 幼い時分、憧れ続けたあの“仮面貴族”ミル・マスカラスの格好良さと共に初代タイガーマスクの華麗さも忘れがたい。いまでも氏、佐山聡の前に立つとかつて動悸の高まりを自身、確かに感じ取った、あの日の私であるや知れない。
 誠に易い言葉かも知れないが、また多くの昭和プロレスファンと同じように筆者にも「特別な存在」として今後もきっと死するまであの“衝撃”は滅せぬはずだ。
 時として“憧憬”とは残酷なものだが、タイガーマスク出現以後も私の中で、その一点、曇りひとつ無い。往時の“猛虎”はいまでも“猛虎”足りえるのだ。仮面の中の氏自身が、恒に未来を見据えて前進なされておられる、その間、逆の位置であのタイガーマスク像は揺ぎ無くそびえ立っているのである。 
 「かつてを顧みて、己の歩みを悟る」
 タイガーマスクは、その“象徴”とも言うべき存在だ。
 
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