美城丈二の“80’S・プロレス黄金狂時代Act⑮【藤波辰爾という名の“羨望”】

『美城丈二の“80’S・プロレス黄金狂時代 ~時代の風が男達を濡らしていた頃”』
  Act⑮【藤波辰爾という名の“羨望”】
 1978年、WWWF(現WWE)ジュニアヘビー級タイトルを獲得し、本国凱旋。80年代初頭、凄まじいタイガーマスク人気に代表されるジュニアヘビー人気のまさに火付け役となった。
 ベルトを肩に引っさげさわやかに笑う憎い、奴。あまりのかっこ良さに男性プロレスファンの反感を買うからと敢えて血に染まる流血試合を増やしたのだと、誠しやかに囁かれるほどの美青年ぶりであった。
 剛竜馬、木村健吾、チャボ・ゲレロ・・・プロレス界のニューヒーローにはライバル達がひしめきあっていた。カール・ゴッチ直伝の腰を軸に従えたバックの取り合い、関節技の掛け合い、大きく弧を描いて放つドラゴンスープレックスの衝撃足るや、当時、どぎもを抜かされたものだ。
 その衝撃性を高める為、「敢えて骨折した」と喧伝された次第だが、驚異の、スピーディかつ柔軟性を思わす技の掛け合い等、やはり普段の修練を思わすには十二分の説得力があったし、また往時の関係者、みな「練習の虫」だと呟かれたほどの鍛錬、その賜物でもあったろうと思う。
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伝説のチャボ・ゲレロ戦がかおり夫人との出会いのきっかけだった
 藤波辰爾は草創期の新日本プロレスが生み出した、ひとつの“結晶体”でもあったのだ!!と私は往時を顧みて、思う。
 「弱き者は去れ!!」そこに注釈は入らない。
 中学校を卒業したての大分の少年が夢を描き、信じ、プロレス界に流れ着く。そこからはまさに藤波辰爾という一己の人間の鍛錬あるのみなのであり、のちのニューヒ-ローぶりは藤波選手自身が招いた“至高のとき”であったのだとも思うのだ。
 80年代に入り、長州力とのあの「名勝負数え唄」ヘビー級戦線の活躍が始まる。
 受けの美学、最たるゆえに無論、長州力のいわゆる“ハイスパート・レスリング”は光り輝いたのだと思う。当時、維新革命の波に乗った、ブラウン管の長州力選手を眺め、(おまえの方がエリートじゃん!)とはたと訝しがった私の心根がいまとなっては懐かしい(笑)。
 なんのバックボーン、格闘技経験の無い一少年が夢馳せ、上京し、あらゆる鍛錬に耐え、掴んだ栄光の果てが「俺はお前のかませ犬では無い!」とののしられたら、あまりに理不尽ではないか?(そんな思いもいまやただただ懐かしい郷愁の彼方のような思いではあろうけれど・・・・・・筆者も若かった、ということだろうか?
 当時、既に藤波選手のプロレスラーとしての歩みをそれとなく知っていた私は“革命戦士”として人気を博する長州選手への妬みがあったや知れず。)
 だが、黙々とそんな“維新革命”の最中にあっても藤波辰爾は、自身のステータスを押し上げてくれたリングの修羅を今度は影となって耐えて魅せたのである。うがった見方でもなんでもなく、筆者はそのように長州選手とのライバル闘争以後を見ている。
 80年代初頭、あの一大プロレスブームはまさに見事の一事であった。世間という猛者を冷ややかな一群はさておき、包み込んで起こった大ブーム。その渦中に藤波辰爾は確かに存していた。
 のち、新日本プロレスが激震に見舞われ、幾度となく、「ここで藤波が脱退すれば間違いなく潰れるだろう」という事態が往々にしてあった。だがそのたびに藤波選手は留まってきた。そんな忸怩たる思いを僭越ながらも覗い見やるとき、“無我・ワールドプロレスリング(現ドラディション)”設立に向った藤波辰爾という一己の人間の真実が垣間見えるようで、筆者には胸打たれるのだ。
 “無我・ワールドプロレスリング”設立・新日本脱退。そこにあの新日本プロレス創設者でオーナーでもあったアントニオ猪木というプロレスラーへの生き様がありなんと投影されている。猪木が去ったのちの新日本。藤波辰爾は静かに、動いた。成人してもどこまでも自身の憧れたひと、夢を繋いでくれた“猪木・新日本プロレス”に、忠実でありたいが為に。少なくとも筆者には、そのように思える節を感じるという、これはまったくの主観に過ぎぬかも知れないが・・・・・・。
 多くのプロレスファンにファンタジーを繋いだ、80‘sプロレスブーム。その礎という名の土台の下にプロレス界へと故郷を離れ、巣立ってきた、当時、16歳の少年が憧れ続けて止まなかった“夢のあとさき”なるものが隠れているのだと筆者は深い感慨を抱く次第である。 
 ⇒【筆者・美城丈二、ミルホンネット配信作】