活字プロレスの祖の深遠なる名言「底が丸見えの底なし沼」に心酔した美城丈二氏の、”私の格闘絵巻”と自身が称するその入魂の書は、熱かった馬場・猪木対立世代に向けての浪漫の書である。
序章、風の章、廻の章、火の章、水の章からなる『Anthology Act・1』の各編は、氏の言葉をそのまま借りればプロレス特有の人間ドラマの、まさに光と影を身近に味わうことのできる美城丈二流の文学なんだと筆者は思えた。マスコミが記したもの以外では、21世紀に出たプロレス本としてもっとも最良の1冊ではないだろうか。
このような名著が、未だ書籍化されていない現状にジャンルの衰退を嘆かざるを得ない。実際は知名度のある記者ですら単行本が出せないことを思えば、ダウンロード販売としての電子書籍に感謝せねばならないだろう。
たとえば『“人間山脈”アンドレ・ザ・ジャイアントの微笑』は、以下の書き出しから始まる。
<私は、猪木VS アンドレ戦を好まなかった。「怪物退治」その有り様が色濃く感じられて、それはつまりアンドレの強さを薄々、認識していた証拠だろうが、攻められる際の、あの悲痛な表情がまた物悲しく感じられて、注視に耐えられなかった。>
そして末尾には
<馬場氏なりに考慮した、アンドレへの最大級の賛辞>
と、猪木に始まり馬場で閉める絶妙の構成がある。
美城氏の味わい深い余韻を残すエッセイストとしての力量はどうだろう。このようなじっくり読ませる作品が正当に評価されず、垂れ流しのニュースを自身のブログにベタベタとリンクを貼るだけのまがいものに埋もれてしまっているファンばかりなのだとしたら、活字プロレスもまた絶滅品種になってしまったのであろうか。なんとも悲しい限りである。
<美しいものを美しいと素直に言える心根は、ただ、それだけで清いが、では何故、美しくあらねばならないのか?そのことまで、希求する人々は少ない。私は、そういう疑念を恒に持ち、そうして片一方では、ただ美しいねと、素直に言える人間でもありたいと思って生きてきた、一個のひとでもあった。>
<何がしかを望む、もはや、ただ見てやろう、では、まさしく儚い人生で終わるのではないか?私なりに幾つもの煩瑣な日常というものを、時にけむたがりつつ、時に大いにこれもまた良し、と思いつつ、そんな幼い時分からの、誠に不思議な心の在りよう、そんな心根が、いま、また、私に“僕が見た、あの日の悲喜哀感”その格闘絵巻を書かせたとも思う。>
<プロレスの神よ、お前は泣いているか?かつて、狂うほどにあなたに焦がれたものたちは、また、あなたと共にいまも泣いているのだよ。>
上記は、アントニオ猪木が表紙の第一弾の序文の引用であるが、ここに作者の心象風景の原点がある。美城氏の筆力にぐいぐいと吸い寄せられ、ともに心をうちふるわせられるのだ。
昭和のプロレスを愛した者だけが共有できる至福の時。それが『魂暴風』の希少価値であろう。
かつてのプロレスファンの多くは思い入れでプロレスを観ていた。
現在のプロレスファンの多くは思い込みでプロレスを観ている。
「思い入れは深きし、思い込みは得てして浅はか也」という言葉を、氏に賛辞をこめて贈りたい。忘れがたきレスラー伝説は、すぐれた美城氏の観察力によって著作に残り永遠を手にしたのである。
昭和プロレスに想いを焦がす愛好者必読の書!『魂暴風』
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