昭和プロレス「少年たちとプロレス」1 スローライフ・木村健吾的な生き方!

高校時代、筆者は冷めた10代であった。
「所詮、将来はサラリーマン」「夢なんかないよ」
そんな生意気な口をきく子供であった。いや、本音を言うと密かに作家になりたいという夢があったのだが、それを口にするのが恥ずかしくて…、照れくさくて…、わざと大人ぶっていたのだ。斜に構えるのがカッコいいと勘違いしていたのだ。
それぐらい冷めているにも関わらず、プロレスだけは欠かさず見ており、高校時代に創刊された週刊プロレスを熟読する日々であった。勿論、18歳になってくると段々と将来が不安になってくる。となると、放課後マックでハンバーガーを食いながら友人と議論したものだ。
「男とはいかにして生きるべきか!」
「人の人生とはいったいなんなのか」
栗臭い童貞少年らしく、テーマは硬派ぶったものが多かった。当時既に猪木原理主義者であった筆者は「苦しみの中からたちあがれ」をそらんじる程、読み込んでおり(今考えると、かなり恥ずかしい話だが)、読み返しては感動で泣いてしまうこともあった。故に
「猪木のように華々しく散るべし」
「アックスボンバーに沈んだ猪木は、沖縄沖で逝った戦艦・大和である」
などという(新間さんに洗脳された結果生み出された)妄想を連発し、猪木のように派手に暴れて、破滅するのが男伊達だと信じていたのだ。もうこうなるとカルト(猪木真理教)に近い。
この時、友人の一人が木村健吾の名前をあげた。
「あいつって、ずっーと、立場上二番手だよな、細く長く生きるなら木村健吾だろ」
この言葉に、猪木やヒロ・マツダ、国際プロレスの吉原さんの名前を人生の師としてあげていた我々は戦慄をした。ジュニア時代、藤波と抗争をしたものの、その後中堅として活躍していた木村は決して魅力的なライフパターンを送っているようには思えなかった。
「そういえば、木村健吾って、立場上、微妙な割りには、ずっといるよね」
「絶対にトップにならない生き方かぁ、でも会社をクビにはならない」
我々は控えめで、それでいて継続力のある木村健吾の生き方に注目した。かくいう筆者も木村健吾の「組織の中で二番手でずっと居続ける能力」に感動した。会社員や組織の中の人間としては、かなりスキルの高い立ち振る舞いである。
この議論の数週間後、新日が大量離脱に見舞われる。駅のキオスクで「大阪スポーツ」を購入した我々は仰天した。
「新日に残るのは、猪木、藤波、坂口、木村健吾」
と書かれていた。いよいよ、永遠のナンバー2木村健吾の出番が来たかと、筆者と友人たちは興奮したが、その後の新日合宿風景には仰天した。残った選手や若手たちが必死に新日本を護ろうと発言しているのに、木村健吾は笑顔でこう言ったのである。
「稲妻!!」
うむ、ポジティブである。
木村健吾は常に前向きなのだ。
彼の生き方こそ、今求められているスローライフなのかもしれない。
山口敏太郎事務所