[ファイトクラブ]プロレス界のターニング・ポイント、それは誰も気付かずやって来た

[週刊ファイト10月8日期間] [ファイトクラブ]公開中

▼プロレス界のターニング・ポイント、それは誰も気付かずやって来た
 by 安威川敏樹
・日本のプロレス史を変えた日、その時は誰も今後を予測できなかった
・日本のプロレス界を背負うはずだったエース候補生の悲し過ぎる晩年
・『プロレスラー辞めますか、人間やめますか』怪しげなプロレスの魅力
・不思議すぎる偶然が重なって、日本のプロレスは大発展を遂げた
・マット界にとって9月30日、10月1日がなんであったのか再検証する


 人生における転機とは、自分では気付かずに通り過ぎるものである。何年か、何十年か経った後に、その時のことを振り返って「あの時が俺にとって人生のターニング・ポイントだった」と思い当たるのだ。そして、気付いた時にはもう遅く「あの時、こうしておけば良かった」と後悔しても後の祭りである。
 プロレス界にも、歴史を変えた日というものがいくつもあった。もちろん、悪い方向だけではなく、あの日がなければ日本にプロレスは既に存在していないかも知れない、というものもある。

日本のプロレス史を変えた日、その時は誰も今後を予測できなかった

 プロレス・ファンというのは記憶力に優れているため、大抵のメモリアル・デーは憶えているに違いない。たとえば6月26日なら、1976年にアントニオ猪木vs.モハメド・アリの異種格闘技戦が行われた日だ、と記憶されている。8月26日は、1979年にプロレス夢のオールスター戦が開催された。
 日本のプロレス界にとって最大のアニバーサリーと言えば2月19日だろう。1954年のこの日、東京・蔵前国技館で力道山&木村政彦vs.シャープ兄弟(ベン&マイク)のタッグ・マッチが行われ、NHKと日本テレビで同時に生中継されて、日本に本格的なプロレス時代が到来した。そのことを記念し、2月19日は『プロレスの日』に制定されている。

 しかし、9月30日がプロレスにとってどんな日なのか、認識していない人が多いのではないか。実はこの日こそ、日本のプロレス界にとって最も重要な出来事が起こった日なのである。
 だが、現在でもそのことを意識しているファンは少なく、当時もこの日が日本のプロレスにとって分岐点になるとは誰も思っていなかっただろう。

 1960年9月30日、東京・台東区体育館で2人のプロレスラーがデビューした。馬場正平と猪木寛至、後のジャイアント馬場とアントニオ猪木である。『プロレスの日』から6年半後のことだ。
 日付は忘れられていても、2人のデビュー戦の結果は有名である。馬場は田中米太郎を相手に股裂きでギブアップ勝ち、猪木は大木金太郎に頭突きの連打を食らって惨敗。この結果を受けて、猪木は馬場に劣等感を抱いたと言われている。

 馬場と対戦した田中は、力道山の付き人として忙しく、練習もロクにやっていなかったので、道場でも最も弱かった。つまり、馬場を勝たせるためにデビュー戦の相手に抜擢されたというのが定説である。
 一方、猪木と闘った大木は、弱冠17歳だった猪木よりも14歳も年上の31歳で、しかも母国の韓国ではシルム(朝鮮相撲)の壮士であり、猪木が勝てるわけはなかったのだ。

 馬場はプロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)の投手だった。だが馬場は一軍に定着できず巨人を自由契約となり、テスト生として大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)のキャンプに参加。しかし風呂場で転倒して大怪我を負い、野球は諦めて日本プロレスの門を叩く。
 ところが、そのとき力道山は不在だった。ブラジルへ遠征していたのだ。力道山はブラジル遠征中、陸上の投擲競技で活躍していた日本人移民選手に目を付けた。それが猪木である。力道山は猪木を日本へ連れて帰り、日プロに入門させた。

 つまり、プロレスラーとしては猪木の方が馬場よりも僅かながら先輩なのだ。だが、年齢では馬場の方が5歳も年上。しかも、元巨人の投手という肩書もある。それ以上に、209㎝という身長が何よりも武器だった。馬場にスター街道を歩ませようと思ったのは当然だろう。
 一方の猪木は、陸上選手という以外にはこれと言った経歴もなく、しかも17歳という若さのため、いきなりスター扱いするわけにはいかない。当然、ミッチリ鍛え抜く方針が採られた。

▼1960年9月30日、馬場正平vs.田中米太郎(左)と猪木寛至vs.大木金太郎(右)

日本のプロレス界を背負うはずだったエース候補生の悲し過ぎる晩年

 大木金太郎、馬場正平、猪木寛至は日本プロレスの若手三羽ガラスと言われたが、実はもう1人加えて若手四天王とも呼ばれていたのだ。そのもう1人とはマンモス鈴木である。
 力道山が最も期待を寄せていたのは鈴木だった。馬場は身長こそ高いものの、まだ線が細くバランスが悪い。当時の投手は利き腕に重い物を持つことを禁じられていたので、現在と違いウェート・トレーニングなど行っていなかった。猪木は若すぎ、大木は年齢が行き過ぎている。

 そこへ行くと鈴木は身長193㎝、体重120㎏とプロレスラーとしては理想的な均整がとれた体型。年齢も馬場より3歳年下でちょうど良く、力道山と同じ大相撲出身で経歴的にも申し分ない。
 だが、鈴木は性格的にプロレスラー向きではなかった。鈴木は馬場や芳の里と共に、スターへの登龍門と言われるアメリカ遠征へ旅立ったが、マネージャーのグレート東郷が命じるギミックを拒否したり、私生活でもトラブルを起こしたりして、結局は大成せずマット界を去っている。

 筆者はプロレスラーとしての鈴木は全く知らなかったが、子供の頃にマンモス鈴木を偶然にも見ていた。それは1977年公開の『惑星大戦争』という東宝映画だ。当時の映画は二本立てが当たり前にあって、同時上映は山口百恵&三浦友和が主演の映画だったと記憶している。
 なぜSF映画とサスペンス映画が二本立てだったのかは全くの謎だが、この頃は百恵&友和主演のテレビ・ドラマ『赤いシリーズ』が大人気で、一緒に観に行った筆者の家族のお目当てももちろん百恵&友和の映画だった。

 しかし、子供だった筆者が見入ったのは『惑星大戦争』の方だ。この頃、アニメの『宇宙戦艦ヤマト』が流行っており、翌1978年には『スター・ウォーズ』が日本で公開されるなど、SFブームの走りだったのである。
 成人してから何故か『惑星大戦争』のことを思い出し、ビデオをレンタルして観てみた。すると、クレジットには『マンモス鈴木』と書かれているではないか! どこにマンモス鈴木が出ているのだろうと何度もビデオを見直したが、残念ながら見付けることができなかった。

 マンモス鈴木を発見できなかったのは当然である。なぜなら、マンモス鈴木が演じていたのは『宇宙獣人』という被り物だったのだ。顔を含む全身がゴリラのようなヌイグルミで覆われているので、誰なのか判るわけがない。
 マンモス鈴木はグレート東郷の命令を聞かなかった、と先述したが、それは鈴木の毛深い体を活かしたゴリラ・ギミックだった。リング上でゴリラのマネをすることを嫌った男が、16年後にスクリーンの中でゴリラのような恰好をする。エース候補生としては悲しくなるシーンだった。

▼映画『惑星大戦争』で浅野ゆう子を拘束する、宇宙獣人役のマンモス鈴木(1分41秒頃から)

 もしマンモス鈴木が力道山の期待通りに育っていたら、大木金太郎がエースを盛り立てる番頭として、ジャイアント馬場およびアントニオ猪木がそれぞれ太刀持ちと露払いの役目を担い、マンモス鈴木が力道山の後継者となっていたかも知れない。

▼順当なら、大木金太郎が番頭格として、エースのマンモス鈴木を補佐していた?

『プロレスラー辞めますか、人間やめますか』怪しげなプロレスの魅力

 もっとも、マンモス鈴木が日本プロレスのエースになったとしても、馬場や猪木がそれに従わなかった可能性もある。そして、もう一つの偶然が馬場&猪木がデビューした3年後に起きた。
 1963年12月15日、力道山がこの世を去る。絶対的権力者がいなくなったことにより、日プロは屋台骨を失った。もし力道山がずっと存命で、マンモス鈴木を次期エースとして指名していれば、馬場や猪木は服従せざるを得なかっただろう。さらに、猪木が豊登道春と組み、東京プロレスを興すこともなかったと思われる。

 ただし、それは力道山がマンモス鈴木にエースの座を譲った場合の話。力道山が半永久的にエースの座を死守し続けることも充分に考えられる。
 力道山の晩年は酒や薬で体がボロボロになっていたと言われており、亡くなる頃には引退を考えていただろう。ただ、仮に引退してもまたリングに戻って来るのがプロレスラーのサガだ。

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