[週刊ファイト10月16日期間]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼日本初の女性首相誕生へ! プロレス界における男尊女卑の歴史
by 安威川敏樹
・戦争の爪痕が色濃く残る中、イロモノから始まった女子プロレス
・アイドル路線により、全日本女子プロレスが大人気に
・クラッシュ・ギャルズと極悪同盟の抗争が偏見を拭い去った
・プロレス界にもジェンダーレス化の波
10月4日、自由民主党で総裁選挙が行われ、高市早苗氏が同党の新総裁に選出された。これにより、日本初となる女性の内閣総理大臣誕生がほぼ確実となったのである。
筆者は自民党員ではないので、総裁選の選挙権はない。したがって、今回の選挙結果に本誌で口を挟むつもりもない。え? トップ画像でダンプ松本が悪の限りを尽くしているのは、総裁選に対する感想の現れじゃないかって?? もちろん、そんなことはない。
それはともかく、21世紀になってから四半世紀も経って、ようやく我が国も女性がトップに立ったわけだ。これも先進国としてどうかとも思えるが、まあ自由の国アメリカでも未だに女性大統領は誕生していないということは、日本はまだマシなのか。
プロレス界にも長い間、男尊女卑の思想があった。そこで今回は予定を変更して、日本における女子プロレスについて書こうと思う。

▼男子プロレスを超えた全日本女子プロレス~マット界をダメにした奴ら
戦争の爪痕が色濃く残る中、イロモノから始まった女子プロレス
日本でプロレスが本格的に始まったのは1954年。前年に力道山が興した日本プロレス協会の興行が2月19日にNHKと日本テレビで生中継され、日本中にプロレス・ブームが巻き起こった。
ところが、それより6年も前の1948年に、日本で女子プロレスが行われたのである。太平洋戦争の終結からまだ3年しか経っていない頃、占領下の日本で進駐軍相手に女子プロレスが披露された。
ただ、この頃の女子プロレスは、キャバレーなどの余興で行われる、お色気が目的の見世物も同然。当然その地位は低く、イロモノ扱いだった。
日本初の本格的な女子プロレス団体は、日本女子プロレス協会だろう。それまで、現在で言うところのインディー団体は女子プロレスにいくつか存在したが、1967年にそれら小団体を日本女子プロレスが統括する形となった。この団体は、男子の日本プロレス協会とは全く関係はない。というより、この頃には既に亡くなっていたとはいえ、力道山は女子プロレスを毛嫌いしていた。
その後、フロントの松永高司が意見の食い違いから日本女子プロレスを飛び出し、1968年に全日本プロレス興行を設立。もちろん、これは現在の全日本プロレスとは無関係だが、後に松永兄弟による経営で全女が日本の女子プロレス界を牽引していくことになる。
日本女子プロレスは、1968年に東京12チャンネル(現:テレビ東京)で定期放送を始めるも、2年後には放送を打ち切られた。そして、さらに2年後の1972年に日本女子プロレスは崩壊する。
崩壊はしたものの、日本女子プロレスは国際プロレスに受け継がれた。1974年、国プロに女子部が設置されたのである。日本女子プロレスの残党である小畑千代らが参戦し、再び東京12チャンネルの電波に乗った。
だが当時は、まだ男子プロレスラーによる女子プロレスに対するアレルギーが強く、国プロ内部でも女子部反対の声が強かったのだ。
そのせいもあって、僅か2年後の1976年に国プロ女子部は閉鎖。国プロは団体内に女子部を設置したり、金網デスマッチをはじめとする様々なデスマッチを行ったり、今では当たり前の選手入場曲を始めたりと時代を先取りしていたのだが、いかんせん先見の明が有り過ぎた。
もし、国プロ女子部が軌道に乗っていたら、国プロは1981年に崩壊することもなかったかも知れない。

アイドル路線により、全日本女子プロレスが大人気に
前項でも触れたが、日本女子プロレスの崩壊後は全日本女子プロレスが女子プロ界の1強として君臨する。全女はアイドル路線を推進し、人気を博していった。
初期の代表的なアイドル・レスラーはマッハ文朱だろう。1975年、弱冠16歳でデビューしたマッハは、シングル・レコード『花を咲かそう』で歌手としてもデビューし40万枚を売り上げるヒット。元々芸能人志望だったマッハにとっては願ったり叶ったりで、また全女にとってもアイドル・レスラーに歌手デビューさせるという、今後の売り出し方法を確立させた。
▼還暦を過ぎたマッハ文朱

しかし、マッハは翌1976年に僅か1年で引退。普通なら全女は大ピンチに陥るところだが、すぐ次にアイドル・スターが現れた。ジャッキー佐藤&マキ上田のタッグ・チーム、ビューティ・ペアである。
ビューティ・ペアのデビュー・シングル『かけめぐる青春』は、マッハの倍となる80万枚の大ヒットを記録し、全女の人気を不動のものとした。
この頃の全女ファンは女子高生が中心。つまり、全女は宝塚的な人気を博していたのだ。一方の男子プロレスは男性ファンがほとんどで、男性が男子のプロレスを、女性が女子のプロレスを観るという、芸能界のアイドルとは逆の現象だったのである。
おそらく、この頃の全女ファンの女の子たちは、男子プロレスのことをほとんど知らなかったのではないか。むしろアンチ・プロレスだった女の子が、女子プロに魅せられたのだろう。逆に男子プロレス・ファンの男性は、女子プロをバカにしていた。
1979年にビューティ・ペアが引退すると、1980年にミミ萩原が台頭する。ミミは元々本当にアイドルとして活動していた時期があり、全女のベビー・フェイスとしてはうってつけのレスラーだった。
ミミはジャガー横田やデビル雅美らと抗争を展開、人気を博していく。
全女の掟と言えば『禁酒・禁煙・禁男』と『25歳定年制』。3禁の方を女子レスラーたちが守っていたのかどうかはともかく、25歳定年制が新陳代謝をもたらし、世代交代が上手くいっていた理由だろう。
プロ選手に定年があるのもおかしな話で、しかも25歳という異常に若い年齢での定年だが、これは当時の価値観である『女性は25歳までに結婚すべし』という考え方からだ。今では死語となっているが『女はクリスマス・ケーキと一緒』などと言われていた時代である。つまり、25歳(クリスマス・ケーキでは12月25日)を過ぎると女性は価値が暴落すると考えられていたのだ。
▼ジャガー横田は引退後、現役に復帰

クラッシュ・ギャルズと極悪同盟の抗争が偏見を拭い去った
人気を博してきたとはいえ、当時の女子プロレスは男子プロレスラーあるいは男子プロレス・ファンからは、まだ偏見の目で見られていた。あんなもんは所詮、お色気が主流の見世物だろう。あるいは、女子プロ・ファンは、本当のプロレスを判ってない女どもだ、と。
実際、プロレス・マスコミが女子プロレスを取り上げると、男子プロレス団体から抗議が来ていたほどだ。女子プロごときと我々を同列に扱うな。プロレス・マスコミは男子プロレスだけを報道していればいいんだ。
だがそんな頃に、全日本女子プロレスにモンスター・アイドルが登場した。1983年に結成された長与千種&ライオネス飛鳥のクラッシュ・ギャルズである。彼女らは、男子プロレスはもちろん、骨法など他の格闘技も研究し、男子プロレスと遜色のないファイトを展開したのだ。
クラッシュ・ギャルズの前に立ちはだかったのは、ダンプ松本やブル中野らの極悪同盟。極悪同盟は、極悪レフェリーの阿部四郎まで味方につけ、クラッシュ・ギャルズに対して反則しまくった。当然、極悪同盟は女子高生から憎悪の対象となり、ダンプの実家は彼女らによって多大な被害を受けたのである。
▼長与千種vs.ジャンボ鶴田のガチンコ対決!?
1985年には、長与千種vs.ダンプ松本の髪切りマッチが実現。ダンプが長与に勝利し、人気№1のアイドル・レスラーである長与が坊主頭になるという前代未聞の結末となり、会場となった大阪城ホールには女子高生たちによる悲鳴が巻き起こった。
これには男子プロレスラーや男子プロレス・ファンも度肝を抜かれ、女子プロレスを評価するキッカケになったのではないか。新日本プロレスが過激なプロレスを標榜しようが、全日本プロレスが王道を継承しようが、UWFが格闘プロレスを唱えようが、全女はそれ以上のことをやってのけたのだ。