Top画像:新日本と全日本の興行戦争から約50年・・・・新間氏はドリーのレスリングが好きだった。
[週刊ファイト5月1日期間 [ファイトクラブ]公開中
▼藤井敏之「新間寿氏の訃報」:新日本プロレス・過激な仕掛け人を偲んで
by 藤井敏之
新日本プロレスの黎明期から新日本プロレスへのブームの過度期において、必ず大阪のビッグ・イベントの休憩前後にリングに上がりBIGニュース、ややもすれば大げさな話をして観客を盛り上げる新間寿さんの姿がいつもあった記憶がある。
振り返れば全日本プロレスと新日本プロレスが興行戦争のまっ只中、営業部隊の先頭に立ち新日本プロレスの隆盛とアントニオ猪木が世に出ることばかり考えていた新間さん。
アントニオ猪木をNWAの大物達と対戦できるよう何度もNWA総会に出席した事、ジャイアント馬場の王道プロレスに対抗する為に異種格闘技戦を実現させた事、NWAの世界チャンピオンにアントニオ猪木が挑戦できない事実を受けとめIWGP構想を計画し実行した事、昭和の新日本プロレス、アントニオ猪木の歴史を振り返れば必ずその横に新間寿さんがいた。
東京プロレス旗揚げが縁でタッグを組んだ猪木と新間さんは別れと再会を繰り返してきたが、晩年、新間さんはリング上のアントニオ猪木とリング下の猪木寛至は別の人だと思えるようになったと多くの媒体で話されている。リング上のアントニオ猪木は永遠の恋人だったのだろう。
アントニオ猪木の話をされる時の新間さんの目はいつも輝いているように思えた。
かつてNWA総会で何度も新間氏は新日本プロレスの加盟申請を行ってきた。
1973年、初めて加盟申請したが賛成6、反対17票で敗退。この時、会場にも入れてもらえなく会場前で結果を聞く為、長い時間待機している状態に寂しさと悔しで一杯だったとのこと。そして、ジャイアント馬場のレスラーとしての知名度とプロモーターとしての政治力の強さとは逆にアントニオ猪木の知名度と信用度の無さをしみじみと肌で感じたとのこと。
翌年も猪木と新間さんが出席して再度加盟申請したが否決されている。
この年、猪木はストロング小林戦を始め大物日本人との対戦を実現させ日本において猪木ブームを呼ぶ。しかし年末、ジャイアント馬場が日本人初のNWA世界王者となっている事を考えると如実にその歴史は語っている。
1975年、新間氏は「新日本プロレスはNWAを独占禁止法の疑いで告訴する」という最終兵器を携えNWA総会に出席し、ようやく条件(NWA世界ヘビー級王者を新日本プロレスは招聘できない他)付きで承認された。強引な形での承認だったので各地のプロモーター反対の目は冷たく感じたそうだ。ファンとしても長い目でみれば、いつかはNWA世界王者に猪木が挑戦できるものと前向きに信じ、少しの進展が嬉しかったことを思い出す。
★盟友・初代タイガー・マスクこと佐山聡と
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