[ファイトクラブ]“牛若丸”ムッシュ・ヨシダと、3体のジャイアント

[週刊ファイト2月20日]期間 [ファイトクラブ]公開中

▼“牛若丸”ムッシュ・ヨシダと、3体のジャイアント
 by 安威川敏樹
・“世界の巨人”ジャイアント馬場と“牛若丸”吉田義男の大小対決
・「アンタの顔は忘れまへんで!」記者に言い放った吉田監督の激しさ
・1985年の阪神日本一はハンセンとデストロイヤーのおかげ!?
・野球後進国のフランスで指導し、ムッシュという称号を得た吉田監督
・大巨人と牛若丸、並んで立てばどうなっていたか!?


 今年の2月3日、プロ野球(NPB)の阪神タイガースで選手や監督として活躍した吉田義男さんが亡くなった。享年91歳。野球解説者としては独特の京都弁を駆使し、辛口批評ながらモッチャリした口調で関西のファンには『ヨッさん』の愛称で親しまれていたのだ。
 選手時代に着けていた背番号23は阪神の永久欠番となり、もちろん野球殿堂入りを果たしている。また、阪神の監督を3度も務め、優勝の1位から最下位の6位まで全てを経験するという、珍しい記録を残した。(本文中敬称略)

“世界の巨人”ジャイアント馬場と“牛若丸”吉田義男の大小対決

 1953年、立命館大学を中退した吉田義男は大阪タイガース(現:阪神タイガース)に入団。身長165㎝と小柄ながら俊敏な動きでたちまちショートのレギュラーの座を掴み、その守備力は今なお『史上最高の遊撃手』の呼び声高い。
 吉田が入団する前の、タイガースのショートは守備に定評のあった白坂長栄。吉田の加入後、最初の練習でノックを担当したコーチが松木謙治郎監督に「吉田と白坂では守備範囲が2m違います」と言うと、松木は「そりゃあ、プロと大学生やったらそれぐらいの差はあるやろ」と答えたが、「いやいや、吉田の方が守備範囲が広いんです」とコーチが言って松木を驚かせたという。松木は吉田のプレーぶりを見てショートの起用を即決、名手の白坂をセカンドに回したほどだ。

 小兵で華麗かつ芸術的な吉田の守備は“牛若丸”と称され、たちまち人気者になった。また、俊足を活かし2度の盗塁王を獲得。打撃でも粘っこいバッティングで三振が極端に少なく、179打席連続無三振という当時のNPB新記録を樹立している。
 400勝投手の金田正一は、どんな強打者よりも吉田を最も苦手としていた。金田にとって『顔を見るのもイヤ』だったのが吉田で、いつも吉田に打たれて頭に来た金田はマウンドから「こら、チビ!」とよく怒鳴っていたという。

 体の小さい吉田はもちろん、タイガースにとっての最大のライバルとは巨人軍こと読売ジャイアンツ。そんな巨人に本物の巨人が入団してきた。
 身長2mを超える馬場正平投手、後のジャイアント馬場である。

 馬場は巨人入団3年目で初めて一軍に昇格。1957年8月25日、甲子園球場でのタイガース戦で一軍初登板を果たした。
 タイガースが大量リードを奪っていた8回に馬場がリリーフ登板。要するに敗戦処理だが、馬場が最初に対戦した打者は他ならぬ吉田だ。球界一の大男と小兵の対決で、馬場のNPB時代の公称は身長200㎝だったため、その差35㎝。これは、巨人の水原茂監督による演出とも言われる。

 タイガースの藤村富美男監督が初登板の馬場に「おい、ストライク入るか!?」とヤジったため、大スターからの一言に馬場は萎縮してしまった。
 馬場にとって一軍での記念すべき第1球、捕手の森昌彦(現:祇晶)が出したサインはカーブだったが、ストライクを取る自信が無かった馬場はサインを無視してストレートを投げたという。マウンドにすっ飛んできた森は「馬場、サイン見えてるか!?」と慌てて言った。

 世界の巨人と牛若丸の対決は、馬場が吉田をサードゴロに打ち取り、後のジャイアントに軍配。後続もキッチリ抑えて3者凡退という上々のデビュー登板だった。
 この年の10月23日、後楽園球場での中日ドラゴンズ戦で馬場は一軍初先発。相手は200勝がかかっていた中日のエース杉下茂で、馬場はこの大投手相手に5回1失点という堂々たるピッチングを披露する。馬場の打席で代打が出て降板となり、杉下は好投を続け完封で200勝を達成した。つまり、杉下が200勝を果たした試合での敗戦投手は、馬場正平と記録されている。

「アンタの顔は忘れまへんで!」記者に言い放った吉田監督の激しさ

 筆者は、吉田の現役時代の記憶は全くない。筆者が野球を観始めた頃の吉田は、既に阪神の監督だった。第一次吉田政権の頃で、3年間の監督生活だったが優勝は1度もできず、成功したとは言い難い。
 この頃、吉田阪神の前に大きく立ち塞がったのは、やはり巨人。吉田監督初年度の1975年、巨人は球団史上初(そして現在まで唯一)の最下位という屈辱を味わったが、翌年の巨人は最下位から這い上がって劇的な優勝を果たし、最後まで優勝を争った阪神は惜しくも2位だった。その次の年も巨人が優勝、阪神はBクラスの4位に沈み、吉田は監督を解任されてしまう。

 吉田の阪神監督としてのハイライトは、なんと言っても第二次政権となった初年度の1985年だろう。この年は一番の真弓明信、三番のランディ・バース、四番の掛布雅之、五番の岡田彰布を中心とした猛虎打線が大爆発し、阪神にとって21年ぶりのセントラル・リーグ優勝、そして2リーグ分立後初の日本一に輝いた。
 ただ、この年の阪神の日本一は、攻撃力だけが理由ではない。守備の人だった吉田は、当然のことながらディフェンス力を重視した。

『ダブルプレーの取れない二遊間はいらない』が吉田の持論で、この年からセカンドにコンバートした岡田と、ショートの平田勝男に猛ノックを浴びせ、併殺の取り方を徹底的に教え込んだ。
 当時はまだコリジョン・ルール(走者の危険なスライディングを禁止するルール)などない時代。「野手が走者を避けるか、野手が走者を避けさせるか、そこがポイントなんや」と言い、吉田は走者を避けさせる『攻撃的な守備』を岡田と平田に課したのである。

 吉田の口癖は「守って攻めろ」。打球を予測して守備範囲を広げ、絶えず相手打者にプレッシャーを与えるという考え方だ。吉田は守備力を重視しながら、その性格は超攻撃的だと誰もが言う。
 監督就任早々、岡田の外野からセカンドへのコンバートを決めた吉田は記者会見で「岡田は皆さんが思っているほどヘタな内野手ではない。地肩が強くて併殺が取れるし、日本一の二塁手になる可能性がある」と言ったところ、思わずプッと笑った記者がいた。すると吉田は、その記者を指さし「アンタ今、笑いなはったな。私の言うてることがウソやと思てはるんやろ。アンタの顔は忘れまへんで!」と怒鳴ったほどだ。

▼当時、阪神タイガースのキャンプ地だった高知の安芸市営球場から1985年の日本一が生まれた

1985年の阪神日本一はハンセンとデストロイヤーのおかげ!?

 吉田が守備力を重視したとはいえ、最も注目を集めたのは何と言っても打撃陣だろう。4月17日の甲子園、巨人戦でのバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発がこの年の阪神を象徴していた。
 特にバースは、三冠王を獲得するという神懸かり的な大活躍。実は、バースは前年限りで解雇の可能性もあったのだ。

 バースが阪神に入団してからの過去2年間は、外国人助っ人としては可もなく不可もなくといった成績。球団側は、優勝するためにはもっと強力な外国人打者を獲得するべきとバースを解雇しようとしたが、吉田はバースの長打力は捨て難いと残留を主張。
 来日3年目で日本野球にも慣れたバースは、かなり活躍するのではと期待したのだ。もっとも、三冠王を獲るような大爆発は、吉田も全く予想していなかっただろうが。

 そんなバースには、来日してから同じアメリカ人の友人ができた。他ならぬスタン・ハンセンとザ・デストロイヤーである。

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